『野櫻家の選択』 主な登場人物
「えっ、江藤先生が入院?」
「はあ、そうなんですよ。ほんと、困りましたねえ」
電話の向こうから聞こえる部下の御前崎 駿(おまえざき しゅん)の声は、いらいらするほどのんびりしている。
「入院って、どれくらい?」
「それははっきりおっしゃってなかったんですけど、一カ月は掛かるらしいです。何せ心臓ですから。絶対安静だそうですし」
「病名は?」
「えっと、なんだっけな。虚血……虚血性なんちゃら」
「まあ、いいわ。事情はわかった。それでどうする?」
「どうするって……先生の病状が落ち着いたら、お見舞いに伺おうと思いますが、当分は絶対安静だそうです」
「そうじゃなくて」
美紀の苛立ちはピークに達している。よりによって、こんな時にこんなことが起こるなんて。
「来週のイベント。江藤先生が講師ということで告知していたわけだし、それで会場も押さえていたんだから、どうしたらいいか、考えないと」
「ええ。困りましたね。もうそちらはキャンセルするしかないんじゃないでしょうか。江藤先生は有名な方ですから、入院のこともネットのニュースで流れるでしょうし、学生さんたちにもご理解いただけるかと」
御前崎は自分が担当するイベントなのに、まるで他人事だ。
「それは最後の手段。ほかに講師を引き受けてくださる方がいないか、ともかく探す」
「えーっ、無理でしょう。だって、来週ですよ」
「今回お招きする講師は江藤さんだけじゃないし、クライアントも初めてのところだから、できるだけキャンセルはしたくない。とにかくやれるだけのことはやらないと、クライアントにも申し開きできないでしょ」
「そうは言っても、物理的に不可能じゃないですか」
「とにかく、当たれるだけは当たって」
「当たってって、誰に?」
もっともらしいことを言うが、結局のところ御前崎は指示待ち人間だ。少し調べたり考えたりすればわかることでも、いちいち上司に判断を仰ぐ。入社二年目、部署でいちばん若い御前崎を育てるのは、マネジャーとしての美紀の課題である。