
妻の遺志を受け継いで2011年から「池袋あさやけベーカリー」店主として路上生活者の、2013年からは「要町あさやけ子ども食堂」の店主として子ども支援を行う山田和夫さん。ひとり住まいの一軒家はさまざまなイベントが催され、山田さんを慕う人々が集まる場になりました。「地域の居場所作り」の軌跡とは?(写真・文=阿部祐子)
満開のハクモクレンの下で焼きたてパンを

3月のある日、東京・池袋に近い要町の一軒家の前に「モクレンカフェ」の看板がかけられました。築50年、2階建ての木造家屋の庭には、ハクモクレンがいっぱいに花を咲かせています。
1日限定のこのイベントは、山田和夫さんが自宅を開放して月に2回開催する「要町あさやけ子ども食堂」3周年のお祝いとして、山田さんを慕うボランティアが企画したものです。
2009年に亡くなった山田さんの妻、和子さんは生前、自宅の玄関先を店舗として、仲間たちとパン店を創業。ハクモクレンの花が咲く季節には庭先に椅子を並べてコーヒーのポットを置き、小さなカフェを開いていました。「モクレンカフェ」は当時の雰囲気をしのぶ、1日限定のイベントでもありました。
玄関先を「店舗」にはじまった、妻が営むパン屋さん

山田さんと妻の故・和子さんは1974年に結婚。専業主婦となった和子さんは2人の子どもを育てながらパン作りを学び、1989年に仲間と「こんがりパンや」を創業しました。
山田家のキッチンに業務用オーブンを備え、玄関先を店舗として週2日営業という形ではじめた店は評判になり、やがて週5日に。91年からは国産小麦、天然酵母使用に切り替えました。住宅街の隠れ家パン店として雑誌に紹介され、起業の成功者として和子さんが取材を受けることもありました。
食に対するこだわりを追求すれば原価は上がってしまいます。「商売として大丈夫なのだろうかと思ったこともある」と山田さんは振り返ります。しかし心配をよそに、自己資金3万5000円からはじまったパン店は、2005年頃には一家を支えるまでに成功しました。
玩具メーカーに勤務していた山田さんは2008年に会社を定年退職し、第二の人生は妻たちの「こんがりパンや」の仲間に入れてもらおうとワクワクしていた、といいます。
ところが2009年の春に和子さんが突然、体調不良を訴えます。3月に病院に行ったところ、末期のすい臓がんであることが判明しました。
そのときはもう手術もできる状態ではありませんでした。5カ月の闘病を経て、和子さんは同年8月に亡くなってしまうのです。あっという間の出来事でした。
社会とつながれば、ひとりでもさびしくない
告別式を終え、「こんがりパンや」を店じまいした山田さんを襲ったのは「本当にひとりぼっちになってしまった」という気持ちでした。
届く郵便、かかってくる電話は、和子さんか「こんがりパンや」宛のもので、会社を退職してしまった自分宛のものはない。疎外感と、どうしていいのかわからないという気持ちで、妻亡き後の半年ほどは、何もできなかったといいます。

ふと思い出したのは、妻が遺したパンのレシピでした。和子さんはNPO団体の依頼で、「こんがりパンや」のパンを路上生活者に寄付する活動をしていました。
闘病中、和子さんは山田さんに、活動を続けてほしいと頼んでいました。パンの作り方まで説明してくれましたが、山田さんには難しすぎました。断ると和子さんはしばらくして、山田さんにも作れるように簡素化した、手書きのレシピを手渡しました。
妻のレシピは「そんなことくらい、わかるよ」というくらい詳しいものでした。最後には「出来上がり」の文字まであります。
その「出来上がり」の言葉を目にして、山田さんは気づくことになります。「できあがったからさあ召し上がれ、ではなく、パンができあがった後のことは、あなたが考えなさい」いうことなのではと。「社会とのつながりを持って生きていけば、ひとりでもさびしくないよ」という、妻からへのメッセージなのではないだろうかと。
自宅が、さまざまなバックグラウンドを持つ人が集まる場に

再び社会とつながるという希望。山田さんは週1回パンを焼き、同じ団体に寄付をはじめました。ついに和子さんの遺志を引き継いだのです。ところが2011年の東日本大震災を機に上向いていた気持ちが沈み、せっかく身につけたパン作りから遠ざかってしまいます。
ある日、その団体から電話がありました。「お手伝いしますから、パンを一緒に焼いていただけませんか?」後から聞けば、山田さんを心配しての電話だったそうです。
「手伝ってもらえれば作れるかもしれない」。料理が得意な主婦ボランティアのような人々が来てくれるものと思って快諾した山田さんですが、約束の日に家に現れたのは、もと路上生活者、精神疾患を抱えるなどで社会復帰中の人たち。路上で和子さんのパンを食べたことがある人もいました。
予想外のことにびっくりしましたが、メンバーは独自のカウンセリングによってお互いのバックグラウンドや抱えている問題をシェアしていて、関わり合いながら社会復帰をめざしているとのことでした。
山田さんがとまどっているように、彼らも見ず知らずの人を前にして困っているようでした。そう気づいたことで「自分のバリアが外れた」と山田さん。
だれひとりとしてパン作りの経験がないメンバーに、ゼロから教えてみようという気持ちになりました。こうして2011年、パン作りと配布を通じて路上生活者の支援を行う「池袋あさやけベーカリー」が立ち上がったのです。

お客さんに聞くのは名前だけ、ボランティアの反省会はしない
「池袋あさやけベーカリー」が軌道に乗り出した2013年、山田さんは同じく自宅で次の取り組み「要町あさやけ子ども食堂」の店主となります。月に2回、第1、第3水曜日の17:30~19:30オープン。1食300円でだれでも安心・安全な晩ごはんが食べられます。

和子さんの知人であるNPO法人のメンバーを通じて、日本では生死を左右するような絶対的な貧困は少ないものの、「相対的貧困(*)」の状態で暮らしている子どもたちが6人に1人いる、という事実を知ったことがきっかけになりました。
*全世帯の可処分所得を世帯人員の平方根で割って調整した「等価可処分所得」の中央値の半分に満たない層を指す
地域をはじめとした全国から善意で集まった食材をメインに、調理はボランティアが行い、足りない食材を買う費用など、収入でまかないきれない分は山田さんが生協でアルバイトをして補うことで運営しています。少しずつですが、自治体の助成金ももらえるようになりました。
当初、山田さんが想定していたのは「小学校低学年の子どもが、ひとりで食べにくる場所」でした。ところがはじめてみると、お客さんの多くは就学前の子どもとお母さん。食べに来るだけでなく、食事の後、子どもたちは友達と遊び、お母さん同士はおしゃべりをするのが楽しそうです。
今どきはアパート、マンション住まいで、自宅にある階段になじみのない子どももいます。山田さんは思い切って荷物を整理し、自分の寝室以外のすべての部屋を開放しました。子どもたちは2階の押し入れで「秘密基地ごっこ」をして遊び、お母さんは1階でゆっくり過ごします。
「要町あさやけ子ども食堂」では、お客さんに名前を書いてもらうだけで、住まいや連絡先などのバックグラウンドは聞きません。「ひとり親と子どもだけの暮らしでは、お互い行き詰まってしまうことがあるでしょう。親だけ、子だけ、でそれぞれ息抜きするなど、この場所を自由に使ってもらえればいい」。
ボランティアに対しても、前後のミーティング、反省会はあえて行いません。「言葉にしないで、心に浮かんだこと、気づいたことをそのまま持ち帰ってほしい」。

「行こうと思えば、行くことができる場所」
著書を読み、活動を知って「山田さんに学びたい」と集まってくる人は大勢います。「子ども食堂を全国展開してはどうですか」と持ちかける話もあります。
山田さんは「これ以上活動を広げるつもりはない」といいます。しかし来る人は拒まず、ノウハウも惜しまないで提供します。「子ども食堂をはじめてみたい」という人をはじめ、多くの人が山田さんの活動からヒントを得て、自分の活動に活かしています。
「池袋あさやけベーカリー」「要町あさやけ子ども食堂」の活動で山田さんが提供しているのは「居場所」です。家庭でも仕事の場でもない第三の場所「サード・プレイス」の大切さは近年、注目されています。
場所を作るだけでは、そこで何かが探せる人と、探せないで手持ちぶさたのまま足が遠のいてしまう人が出てしまいます。山田さんは「居場所」に何が必要だと考えているのでしょう?
「池袋あさやけベーカリーのスタッフにとっては『自分がいなければここはダメなんだという役割』です。でも気が向かない日は来なくていい、遅刻してもいい。作るのはパンですから、だれかの不在で作業がストップするといった心配はない。参加する、しないを自分の意思でゆるやかに決められるところも、うまくいっている理由かもしれません。不格好なパンになっても、食べれば証拠も残らないしね(笑)」
要町あさやけ子ども食堂は、「訪れるお母さんと子どもにとって『行こうと思ったら、行くことができる場所』です。みんながいて話せる場所。自分の意思で行かないのはいいんです、でも必要なときは行くこともできる。こう思える場所がいつまでもあり続けることが大切だと思います」
固執のようなものがどんどん、そげ落ちていった
かつて山田さん夫婦と2人の子ども、両親の合計6人で暮らした家は、和子さん亡きあと山田さんの1人住まいになりました。
今では「池袋あさやけベーカリー」「要町あさやけ子ども食堂」とそれに派生した活動で、家にはたくさんの人がやって来ます。山田さんが旅行する際には、信頼するボランティアにカギを預けて自由に使ってもらうことまでしています。
「さまざまな人とのつきあい、経験で、それまであった、こうあらねばならないといった固執のようなものが、1枚ずつそげ落ちていった」と山田さん。
冒頭で紹介した3月の「モクレンカフェ」ではカフェオープンの正午にはお客さんがひっきりなしに訪れる人気ぶり。しかし肝心のパンはまだ焼けておらず「おいおい、どうするんだよ~」と檄を飛ばしながらも、楽しそうな山田さんの姿がありました。
「要町あさやけ子ども食堂」には近隣との交流を求めてひとり暮らしの高齢者が訪れることも増えました。
地域から、世の中の小さな変化や、社会的な課題が見えてくることもあります。2店の店主として、関わる人の「居場所」を預かる山田さんの活動は、これからも続きます。

要町あさやけ子ども食堂 ウェブサイト http://www.asayake-kodomoshokudo.com/
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