子どもと関わるきっかけは、大学時代の演劇部

 東京の小学校は美術教育に熱心でした。火災予防などいろいろなポスターを描くコンクールがあり、作品を出しては賞をもらうようになりました。

 小学校時代は学校には通えていたものの、世の中は戦争に向かっていきました。『過去六年間を顧みて』では、「中学校に合格した、万歳」というところで日記が終わっているのですが、その中学校ではさらに戦争の影が色濃くなっていったといいます。

 中学校に入ると大きな図書館があり、芥川龍之介や宮沢賢治の全集を全部読むんだと喜びながら毎日毎日、図書室に通ったそうですが、その影響か、だんだん目が悪くなっていってしまったのですね。

 当時は中学校4年、5年になると、学校にいた「配属将校」が生徒たちに航空士官になってはどうかなどと声をかけていたそうですが、かこは目が悪くなったがために、身体検査さえ受けさせてもらえなかった。すると「なんだ兵隊にもなれんやつか」と言われてしまう。非常にショックだったと言っていました。

 でもその「なれなかった」ことが、かこの運命を大きく左右しました。

 旧友の多くは航空士官になって帰らぬ人となる中、かこは高校生になり、やがて帝国大学に進学しました。ただ、戦争のため授業がない時代です。疎開先で1945年8月15日の終戦を迎え、9月になり大学に戻りましたが、食べるものを探すのに精いっぱいでした。

 そんな時にふと一枚のポスターを見たと言います。それが「演劇研究会」のちらしでした。

 おそらくかこは当初、脚本を書きたかったのではないかと思いますが、才能のある方々の中にあって舞台美術に回ることになり、焼け焦げたくぎを拾い、ベニヤ板を集めて、大道具、小道具を作ったそうです。そうしてひと時、出来上がった舞台上の世界に、安らぎを感じていたかもしれません

 当時は大学3年生で卒業だったのですが、周りが卒論に忙しい中で、どうにか時間を作ったかこは、ついに自分の脚本で子ども向けの舞台をやることができました。それが『夜の小人』でした。

 この時の経験が、かこが子どもたちと関わっていく、大きなきっかけになったのです。

取材・構成/山田真弓(日経DUAL編集部)