「貧困をなくそう」は、2030年までに達成すべき目標を定めた「SDGs」の一番目に掲げられている目標です。今、日本では「貧困」が見えにくくなっています。所得による教育格差があり、それを「やむを得ない」とする保護者の考えも、高所得者層を中心に広がっているようです(前回の記事「わが子だけ良ければいい?貧困への無関心がもたらすもの」)。今回は、貧困家庭で苦労を重ねてきた杉本愛さん(23歳・会社員)に、自らが体験した「見えない貧困」の実情について聞きました。「シングルマザーの家庭に手を差し伸べてくれる人は本当に少ない」と語る杉本さんは、一体、どんな経験をしてきたのでしょうか。

塩ご飯しか食べられない日もあった

 「私たち家族の境遇に気付き、手を差し伸べてくれる人は本当に少なかったです」

 そう語るのは、ひとり親の貧困家庭で育った杉本愛さんです。杉本さんは両親の離婚によって、5歳から母親の両親が住む宮城県で暮らし始めました。一家は生活保護を受けていましたが、生活していくのにぎりぎりで、母親はほぼ毎日アルバイトをしていたといいます。

 「母は中卒でした。資格もなく、正社員に就くのは難しかったのです」

 教材費や文房具代などの費用がかさむ新年度は、母親がバイトを掛け持ちして収入を増やしました。昼間は地元のコンビニで働き、帰宅して杉本さんと弟の夕食を用意すると、仮眠を取ります。その後、電車で仙台市に出て、別のコンビニで夜勤に就きました。帰宅は翌朝で、残業すると子どもたちの登校時間に間に合わない日もありました。

 母親が不在の間、姉弟は2人で留守番をしていました。生活習慣は不規則になり、深夜までゲームをして、こたつで寝てしまう生活のなか、宿題もせず学校で怒られたり、居残りで勉強させられたりしたことも。杉本さんは、「母がいなくて寂しかったし、夜は怖かったですね」と、当時を振り返ります。

 「うちはお金がない」と自覚していたという杉本さん。年に数回、公共料金が支払えずに電気や水道が止まったといいます。おかずを買えず、ご飯に塩や醤油をかけて済ませたこともありました。

写真はイメージ
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 ただ、母親は、生活を切り詰めるだけではなく、4カ月に1度ほど、子どもたちを映画やゲームセンターに連れて行ってくれました。

 仕事の合間に絵本も読んでくれたので、杉本さんは読書も勉強も好きになりました。