美大在学中の20歳のときに公募展で賞を取り注目を集め、写真家としてデビュー。27歳で木村伊兵衛写真賞を受賞、28歳で出産し、その後は文筆業でも賞を受けるなどマルチに活躍するアーティストの長島有里枝さんの書き下ろし連載。「女性の生き方」について多角的に表現活動を続ける長島さんが、今回は波乱に満ちた「産後数カ月」を振り返ります。

まさにこれからというときにキャリアが中断

 息子を産んだのは2002年、28歳の終わりのこと。厚生労働省の資料には、2003年における第1子出生時の母の平均年齢は28.6歳とあるので、わたしは当時の平均ど真ん中の年齢で出産したことになります。ところが周囲には、同世代で子育てをしている女性が皆無。写真家、デザイナー、スタイリストに編集者……。20代後半の友人や同僚は軒並み、キャリアアップに邁(まい)進中だったのです。

 息子と歳が近い子を持つ仕事仲間もいましたが、彼女たちはおしなべてわたしより7歳から一回り年上。つまり、キャリアの面では同じステージにいない人たちでした。彼女たちがすでにその道での実績を積み上げ、経済力もつけていたのに対し、わたしは出産の前年に大きな新人賞を受賞したばかり。将来を期待され、写真家としてまさにこれからというとき、キャリアは出産育児によって中断されました。ところが、当時のわたしはこんなふうに思っていた。

 「女性解放運動から何年? 男女雇用機会均等法だってあるし、男女はとっくに平等になった! 今は仕事も子どもも諦めなくていい時代。産んだらすぐ働けばいいや~」

 ……あの頃の自分、思い出すだけで赤面します。いやぁ、何も考えてないってほとんど罪DA・YO・NE! と白目で思うほどの、無知っぷりでした。たったひとつ、無知の功績があるとすれば、いろいろ知っていたら妊娠しないよう気をつけた=最愛の息子に会えなかった=そうじゃなくてよかった!の一点のみ。

うっすらした不安の中で妊婦時代を過ごす

 この妊娠はわたしのキャリアにとってだけでなく、夫の人生にとっても少々厄介なハプニングでした。というのも、彼が数カ月後に4年間のアメリカ留学を控えていたからです。これも無知のなせる業ですが、年上だったわたしは「とりあえず行ってきな!」と姉御風を吹かせて彼を予定通り送り出し、自分は「中の人」(赤ちゃんのことです)と日本に残りました。

 当時はスカイプのような便利なツールがなく、連絡は週に1度の国際電話とEメールでの文通だけ。さらには、彼が渡米してわずか1週間後に同時多発テロが起こります。あり得ない光景をテレビで見たわたしは、以来「夫に何かあったらどうしよう」という、うっすらした不安の中で妊婦時代を過ごしました。