東京都中野区の産院で自然分娩の逆子として生まれたわたしは、人生最初の10年をまだまだ自然が残る多摩地区の団地に暮らし、いろんな面白い大人や子どもに囲まれてのびのびと育ちました。早生まれだったこともあり、何をさせても中の中(か下)の平凡な子どもだったことを、当時の成績表が物語っています。

 10歳になってすぐ、親が分譲団地を購入した埼玉県へお引っ越し。転校先の小学校でいじめにあったことをきっかけに、それまでの健康優良児キャラから一転、ダーク路線へと人生が旋回し始めます。遊び相手がいなかったせいか、成績は急上昇。ただ、大人に不信感を募らせているので性格は反抗的かつニヒルです。小中を通じて生徒会活動に勤しみますが、立候補の理由は「先生に目をつけられることなく、正攻法で学校に反旗を翻せるから」という、腹黒いものでした。

 同じ頃に思春期を迎えますが、中学ではそれまで親友だと思っていた男子の多くが自分を恋愛対象としてみていることが発覚。そのことに幻滅し、男子からしばらく距離を置きたいと思い悩んだ末、受験校を女子高に絞り込んで進学。高校時代は、いつのまにか不仲となった両親の「仲裁役」(その場にいないほうの悪口を聞く係)に抜擢されたため家に居場所がないと感じるようになり、映画館に逃避を始めた時期でもあります。

 多くの映画が、登場人物のどうしようもなさや世界という場所のバカバカしさ、人生の物悲しさを描いていました。そして、それらを観ているといつしか「わたしみたいな人間だって生きていていいのかも」と思えてくるのです。いつか自分も、人をこんな方法で肯定する仕事がしたい。猛烈にそう思ったわたしは急遽、先生方の心配をものともせず進路変更に踏み切ります。そうしてたどり着いたのが、美術大学というオアシスでした。

20歳でデビュー 加速する人生、そして妊娠

 美大の3年生だった20歳のとき、美術公募展に応募した作品が話題となったのをきっかけに、アーティストとしての活動がスタートしました。ところが当時、丸刈り&顔のあちこちにピアスという出で立ちで自分のヌードなどを撮影していたからか、写真やアートの仕事はなかなか貰えないのにテレビや雑誌の取材、映画出演などの依頼だけが増えていきました。そんな不本意な状況から距離を置くため、大学卒業後はアメリカに渡って修士号を取ります。帰国後は当時の彼氏と入籍したり、大きな写真賞をもらったりして、人の目には順風満帆に見えていたかもしれません。妊娠が発覚したのは、その直後でした。

 実は、妊娠は計画したものではありませんでしたが、まったく望んでいなかったわけでもなかったのです。当時の心境は、どう説明してもうまく伝えられる気がしません。乱暴に言ってしまえば、なるようになるさと楽観視していました。わたしは若くて世間知らず、相手はそのわたしよりさらに4歳半も若い。子どもを持つということがどういうことなのかも、よくわかっていなかったと思います。