高濱 「違和感」は私もずっと大事にしてきた言葉です。吉藤さんのこのような魂がどのように育ったか、とても興味深い。

吉藤 なぜ学校に行かなきゃいけないのか、給食を一緒に食べなきゃいけないのか、そうした理由を何も教えてもらえなくて、ただ「そんなもんだ」としか言われてこなかった。それについての違和感は大きくありました。

 私は、小学5年生から不登校になって、中学3年生くらいから学校に復帰しました。平成の初め10年ぐらいは、我慢強い子どもになることが美徳だったと思いますので、我慢に弱いタイプの私は、「落第」印を押されてしまったわけです。

 自分のこだわりや、何かが好きという気持ちはみんな小さいころから持っていると思いますが、どこかで諦めてしまって、違和感を流すことが当たり前になっていきます。子どものころから、みんなが違和感を流してしまうことにも違和感を覚えていました。違和感を流したくはない、というのは、今も思っていることです。

―― 子どもが違和感を流すようになるのは、親の責任も大きいでしょうか。

吉藤 私の両親からは「そんなもんだ」という言葉をあまり聞かなかったです。私の不登校の間も「世の中そういうもんだから」というような言葉は……母はたまに使ったけれども父はほぼ使わなかったかな。特に父は、私が持った違和感について「確かになあ」と面白がってくれました。違和感に気づく力を評価してくれた父親でした

高濱 普通は「世の中はそういうもんだから黙って従え」みたいに言ってしまいそうだけど、「それはいいところに目を付けたね」という姿勢でお父さんが認めてくれたのは大きかったのかもしれないね。

 こだわりが強くて、これは流せない、という人でいることは大事。「ん?」と引っかかったところにこそ課題がある。私の場合、数学が苦手で、賢い先生に質問に行くと、「補助線をこう引くと解けるだろう」と見せてくれるけど、「いやいや、その補助線が浮かばないから困っているんだ」と。でも、先生たちは「それは……、まあ浮かぶんだよね」としか答えてくれない。でもそここそが、生徒たちの困っている部分。それが私の「違和感」でした。補助線が見える力こそが大事だと思い、それが見える力を育てたい、という気持ちが花まる学習会を始める土台になりました。「違和感を流さない」は本当に大切です。

不登校から復帰して浦島太郎状態になったこと

吉藤 不登校から中学で復帰して、浦島太郎状態になったのは、中学になると、小4のころにあれだけ面白いと言っていた理科がみんな嫌いになっていたこと。沸騰するフラスコをわくわく眺めて目を輝かせていた友人たちは、あのときめきをどこに置いてきたんだ、という状態になっていて驚きました。

高濱 それは浦島太郎だ(笑)。小4ぐらいのころは、理科は人気なんですよ。でも、中学生の後半になると、理科が嫌いになる人が増える。中間テストや入試を意識して覚えなきゃいけないことが一気に出てきて、嫌いにさせられていきます。