元フィギュアスケーターの中野友加里さん。3歳からフィギュアをスタートした中野さんは、幼少期、小中学生のときににどのような生活をしていたのでしょうか。そんな生活を振り返ってもらいながら、競技生活を支えてくれたお母さんとの話などを聞きました。

3歳からフィギュアスケートを始め6歳で名コーチの元へ

 こんにちは。元フィギュアスケーターの中野友加里です。3歳から24歳までフィギュアスケートを続けて、現在は35歳。4歳の長男、2歳の長女の2児の母です。

 私は3人きょうだいの末っ子として愛知県に生まれました。母はウインタースポーツが好きで、子どもが生まれたらモーグルかフィギュアスケートをさせたいと考えていたそうです。9歳上の兄はアイスホッケー、6歳上の姉はフィギュアスケートをしていたので、私も3歳から自然とフィギュアスケートを始めました。

 最初は隣町の小さなリンクで習っていましたが、6歳で山田満知子先生(編集部注:伊藤みどりさん、浅田真央さんなどを育てた名コーチ)のクラブに移りました。「将来、選手になりたい? 本格的にやりたい?」と母に聞かれて「うん」と答えたら、知らないうちに母親がコーチを決めていました。こうして、小学1年生からスケート一色の日々が始まりました

2歳の頃、9歳上の兄と近くの交通児童遊園(江南市)で(写真提供/いずれも中野さん)
2歳の頃、9歳上の兄と近くの交通児童遊園(江南市)で(写真提供/いずれも中野さん)

学校帰りに毎日リンクへ 付き添ってくれた母に感謝

 学校が終わると、母が車で迎えに来てくれてリンクへ直行していました。リンクでは氷を整える製氷の時間が20分ほどあるのですが、1回目の製氷時には学校の宿題を、2回目の製氷時には母が作ってくれたお弁当を食べて、毎日遅くまで練習していました。遅いときには夜の11時くらいまで練習をすることもあり、帰りの車の中ではいつも熟睡していました。

 平日は毎日練習、土日も練習をしていたので、休みはありません。「たまには学校の友達と遊びたいな」と思ったときもありましたが、スケートの成長がうれしくて夢中になっていました。

 振り返ってみると、付き添った母も大変だったと思います。母は昼間に仕事をしていましたし、毎日私たちのお弁当を用意して放課後から夜遅くまで練習に付き添い、家に帰ってからは家事もしていたので、就寝時間も遅く、睡眠時間も短かったと思います。私自身も母になり、長男の習い事の送り迎えをするようになって改めて、母のすごさを感じています。

5歳の頃。場所は1998年2月に閉館した岐阜県羽島郡岐南町のミナミアイススケート場です。母が作った姉のおさがりのコスチュームを着て練習していました
5歳の頃。場所は1998年2月に閉館した岐阜県羽島郡岐南町のミナミアイススケート場です。母が作った姉のおさがりのコスチュームを着て練習していました