『こころ』のもう一つの楽しみ方
『こころ』の登場人物たちはよく散歩をする。歩きながら、思考を深める描写が多い。そこで、『こころ』を巡る小さな旅に出た。
まずは、“先生”が小石川に家を探しに行く場面。砲兵工廠(現在の文京区役所、東京ドームの辺り)の塀を左手に伝通院のほうへ坂を上がっていく先生。同じように富坂を上がっていく途中を北に向かって通りを入り、路地を抜けたり、横丁を曲がったり、先生のように迷いながら歩いてみた。すると、突然大木が目の前に現れた。善光寺坂のムクノキという文京区の天然記念物。『こころ』には出てこないけれど、きっと漱石もこの大木は見上げたはず。先生の下宿はこの辺りだろうと自分の中で勝手に定めた。

次に、主人公が“お嬢さん”をくださいと申し出て、奥さんから良い返事をもらった後、複雑な気持ちを落ち着かせるために出た散歩コースだ。水道橋、猿楽町、神保町、小川町、万世橋、神田明神、本郷台、菊坂と今も同じ地名が残る場所。小説にはいびつな円を描くと書かれているのも興味深い。上り下りのある約6キロメートルのコース、ゆっくり歩けば1時間半ほどだろうか。今も趣があるのは本郷台から菊坂を下る辺り、樋口一葉や坪内逍遥の旧居跡などもある。
建物は消えても、地形は変わらない。その場所に立ち、想像力で過去にダイブすれば、傍を物想いに耽りながら行き過ぎる“先生”にも会えることだろう。

