実家を出て一人暮らしをしていたものの、母の支えがあって乗り切れた医学部の生活。実験で、大好きな動物を解剖しなければなりません。くじけそうになると母に「夢をかなえるのは無理ってことね」「動物を助ける夢があるなら、医師として、他の人がやったことをやったうえでないと意見は聞いてもらえない。学位を取り、研修を全うして、一人前にならないとやりたいことはやれないよ」と活を入れられました。

 4年生になり、動物の仕事をしたいという夢が具体的に。米国に短期留学した時、動物を介在して患者の精神的なケアをする療法や、体に障害がある人のサポートをする介助犬を知りました。研究者と出会い、「そんなことで論文が書けるの? 私も絶対にやりたい」と決意。まずはちゃんとした医師になろうと、研修先を探しました。

救急病院を志し沖縄へ 生きるのと研修に必死

 厳しい現場で修業したくて、全国の病院を見に行きました。その中で、「これを見ておきなさい」と教える空気に満ち、アグレッシブだった沖縄県立中部病院へ。「希望者が多くて5倍の難関。試験はすべて英語でしたが、どうしてもここに来たいと猛勉強しました」

 2年間はとてもハードでした。夜勤も多く、平均の睡眠時間は3時間。「思考が止まり、聴診器を当てながら寝てしまった。地元の人は優しく、食事の心配もされました。夢を忘れるんじゃないかと思うぐらい、生きるのと研修するのに必死。十分に話が聞けない、患者さんが亡くなっていくことに無力感を感じました。そういう話をすると母には、『医学部の実験で犠牲になった動物のことは忘れたの?』とまた叱られました」