こうあるべきといった、これまでの父親像に縛られることなく、それぞれの家族にとって最適なカタチを模索しつつ、妻と共に自分らしく育児を楽しんでいる。そんなパパたちに、子育て中のパパライターがインタビューするこの連載。自身が追い求める理想の父親像とともに、育児や家族への考え方、仕事観などについてお話をお聞きします。

 第5回は、大阪市内にある小規模保育所・保育アトリエ「こどもなーと」代表の和泉誠さん。わが子のために開設したアトリエが地域の美術教室になった。その後、親からの要望もあって保育ママ(庭的保育者)の認定を受け、そして「こどもなーと」を小規模保育所として開設。アートを通した保育が話題となり、現在は6つの保育施設を運営している。こどもなーとの様子を取材させていただきつつ、和泉さん自身のご家族のことや目指す父親像・家族像、仕事観についてお話をお伺いしました。

結婚当初は“兼業主夫”だった

── 和泉さんのご家族構成を教えてください。

和泉誠さん(以下、敬称略) 妻と娘と息子の4人家族です。娘は小学校6年生で、息子は3年生です。現在、妻は弁護士事務所でフルタイムで働いているので共働きです。

 結婚したのは13年ほど前ですが、僕がある美術系の大学で助手をしていたころの学生だったのが妻。卒業後、京都のギャラリーに行くときに再会したのがきっかけでした。結婚時、僕はフリーで美術制作の仕事をしていました。百貨店などで販売されているような花の絵や肖像画など、オーダーを受ければ何でも描くという感じでした。

 写真みたいにリアルに描くのが得意だったので、預かった写真をベースに描いていく。月に5枚くらい描けば自分1人なら十分な生活ができるくらいの収入でした。他にデザインの仕事などを自宅でしていました。

 一方、妻のほうは、デザイン事務所でアルバイトをしていたのですが、朝早く出勤して遅くまで帰れない。そういう状態だったので、娘が生まれるまでは、自宅で仕事をする僕が、家事はほとんどやっていました。

── 自宅で美術制作の仕事をしつつ家事もする、今でいう“兼業主夫”のような形だったのですか?

和泉 まさにそうです。1人暮らしが長かったので料理をするのも得意だし、掃除や洗濯も苦にならない。子どもが好きなので、子どもが生まれたら自分が主体的に子育てをしたいと思っていました。実は結婚前は公務員の妻と結婚して、専業主夫になるのが理想だったんです(笑)。

 でも、妻は公務員ではなかったので、妻は仕事に出て、僕は家で美術制作をして生活できる状態にしました。「子どもが生まれたら家事だけでなく育児もするし、自分の分は自分でちゃんと稼ぐ。お互いに収入は自分の分は何とかしよう」といったスタンスで話し合って結婚しました。

 なので、結婚当初、家事に関してはほとんど僕が積極的にやるといった感じでした。

和泉誠さん

大阪市で6カ所展開する小規模保育所・保育アトリエ「こどもなーと」代表。美術大学卒業後、大学や美術教室の講師をしながら絵画の作品を発表し続けるも、結婚を機にオーダーの美術作品制作に専念。わが子のために好きにラクガキできるアトリエを開設したことをきっかけに、地域の子どもたちが集まる美術教室「こどもなーと」を開始。待機児童問題などを解消するために自ら保育ママ(家庭的保育者)の認定を受けた後、こどもなーとを小規模保育所として再スタート。保育所はこの4年間で6カ所にまで増えた。自身の考え方に近いイタリアの幼児教育実践法「レッジョ・エミリア・アプローチ」を学ぶ。アートを通した育児が話題となり、保育関係者の視察は絶えず、保育に関するシンポジウムや講演も行っている。小6娘と小3息子の二児のパパ。家事・育児に積極的に参加するパパを増やすための活動を行うNPO法人「スーパーダディ協会」理事も務めている。

── お子さんが生まれてから、家事の分担に変化があったのでしょうか?

和泉 子どもが生まれてからは、妻も家事をするようになりました。僕は自宅で美術制作の仕事をしながらなるべく子どもの面倒も見るという感じでしたが、妻も産後しばらくは仕事をしていないので、2人とも家にいる。体力が回復してからは、妻も家事の分担を増やしていくようになりました。

 長女が生まれてからは、オムツも替えるし、お風呂に入れるとか寝かしつけ、外への散歩といった子育てに関することは、基本的に僕のほうが積極的にやるといった感じ。特に長女は母乳でないとダメだったので、「オッパイだけはお願いね」と。当時は、平日昼間に抱っこ紐で子どもを連れて散歩していると、公園にはママしかいないから冷たい目線が刺さりました。「あのお父さん、リストラされたんかな?」っていう声が聞こえてきたり(笑)。当時はイクメンという言葉もない時代ですから。娘が保育園に通うようになったのは1歳半なので、それまでは今でいう、兼業主夫のような生活をしていました。