いつ何を好きになるかは子どもたち次第

 では自分はどうなのだろうとわが身を振り返ってみると、幼い頃に父がよく家族を集めて録音会をしていたのを思い出しました。といってもラジカセの前でしゃべったり歌を歌ったりしてテープにとるだけのことなのですが、その時に覚えた「自分の体から出た音が自分の体ではないところに刻まれる」という生理的な快感が、のちの仕事につながっている気がします。

 とにかく自分の声が機械を通っていくときに覚える、ある種の身体的感覚が好きなのです。理由はないけど、好きなものは仕方がない。

 親としては中学から一貫校に入れたのだから、安定した仕事の伴侶と穏やかに暮らして欲しいと思っていたでしょうけれど、結局は出稼ぎ大黒柱で明日をも知れぬ浮き草稼業ですから、内心複雑かも。

 こんなことを書くと、「もしもうっかり変なことを体験させてわが子がニッチな執着を抱いてしまったらどうしよう」と不安になって、ますます子どもを取り巻く環境のお手入れに熱心になる人もいそうだけど、たとえ親でも子どもの脳みそにまで手を突っ込むことはできません。

 いつ何を好きになるかは彼ら次第なのです。むしろその摩訶不思議な奇跡の発現と成長を見届ける特権を与えられたのが親なのではないかと思います。

 蒔いたタネから未知の葉が出て花を咲かせるまでのわずかな時間を、ジョウロ片手に驚きながら一緒に歩むのが、親にできる精一杯のことなのでしょう。