ヒーローはいつも私たちを勘違いさせる。戦争ものの映画を見ているときに、人は悲惨な戦場を生き延びて平和の誓いを立てる主人公にわが身を重ねて涙を流す。だけど現実に戦火にさらされたら、私たちのほとんどは主人公の背後で焼け落ちる建物の下敷きになるか、足元に倒れている瀕死の負傷者になるだろう。あるいは画面に映った途端に撃ち殺される市民や兵隊になる。だから「戦火を生き延びる英雄になるための教育」ではなく「戦争を起こさないための教育」が必要なのだ

そのとき、わが子に伝える言葉を持っているだろうか

 平時だって同じではないだろうか。私たちの子どもはかけがえのない特別な存在だけれど、映画の主人公ではない。だから、彼らに「いかなるときも勝ち組であれ」と説くよりも、「勝ち組になれなくても安全に生きていける世の中とはどんなところか」と問うことが必要だろう。

 想像したくはないが、わが子が搾取されたり、理不尽な命令に従うよう強いられたり、心身の暴力にさらされたり、人間らしいささやかな幸せを手にすることすら難しい生活を送らねばならないこともあるかもしれない。そんなときにどうすればいいかをわが子に伝える言葉を、あなたは持っているだろうか。私は胸に手を当ててみても、それを十分に伝えられているか、自信がない。

 生きる力を手に入れるために、学力は必要だ。でも「負け組にならないように勉強しなさい」だけでは、勉強したのに行き詰まったときの対処が分からない。そしてそんなことはいくらでもある。最高学府の大学院には、勤め先のない若者があふれている。

 何のためにフットボールをやるのか?と、何のために勉強するのか?は似ている。何のために働くのか、何のためにこの会社にいるのか……も。逃げなさい、と言っても簡単なことではないだろう。声を上げなさい、と言っても難しいだろう。

 関西学院大の選手にタックルをした日大の選手はアメリカンフットボール選手としては終わった。だけど彼の決断と会見での言葉は多くの人の心を動かした。「こんなことを放っておいちゃいけない」と怒りの輪が広がった。彼がこの出来事から学んだことはたくさんあるだろう。こうした構造に何の疑問も持たずに適応するだけの人生では遂げられなかった、大きな成長を遂げただろうと思う。

 今どれほどつらい心境かと思うと言葉もないが、彼の前途に理解のある大人たちが手を差し伸べることを心から祈るし、もう同じことを繰り返してはいけないと思う。今まで彼と同様の目に遭って、それこそ潰されてきた若者たちがどれくらいいただろうか。

 そう、私たちは知っていた。この社会が日大アメフト部のタックル事件や、財務省の公文書書き換え事件を生み出したのと同じ空気で満たされていることを、とっくの昔から知っていたのだ。

 それはあまりにもありふれており、深い諦めに覆われていて、こうしてメディアで共有されるストーリーになるまでは「事件」ですらなかった。このほど立て続けに報じられたニュースで、見慣れた日常の風景の歪さが公に語られただけのことだ。