これからの子どもたちに、未来を託さなければ
── 世の中の空気に流されない気持ちをお持ちだったのですね。
かこ 僕は、当時の日本の大人の間にあった空気が、非常に残念でした。時代の流れがあって、それに乗ってしまう人たちがいるのは分かりますが、何も軍人だけに集約することはないだろうと思っていました。
一番こたえたのは戦時中、中学時代の電車での出来事ですね。僕は東武東上線沿線に住んでいましたが、ある日電車に乗ると、背広を着ている人がいました。当時は衣料なんて切符制で新しい衣料なんてめったに手に入らない時代でしたから、背広を作るのは大変なことでした。僕は、その人は衣料がないときだから、古いタンスに入っていたものを、何か用があって着たのだろうと思いました。
ところが誰もが軍服のようなものを着ていたので、背広を着ていたら目立ってしまうわけで、同じ電車に乗っている人間がごちょごちょ言いだした。その声がだんだん大きくなって、「なんだこの時代に、背広なんか着てやがって。それでもおまえは日本人か!」としまいには背広を着た人を、電車から降ろしてしまったんですね。
僕は、表面的なものだけで、背広を着ているだけで、国民服になっているカーキ服を着ている人との差だけで、「お前は日本人か」などと差別し罵倒していいと考えてしまう、そういう「時代」に乗っかっている大人の姿に、なんたる情けないものかと憤りました。
それぞれの立場なり状況なりがあり、食料もないような中で必死に生きようとしているのに、それを互いに助け合うのではなく、自分より下と見た人間をけなして、自分が得々としている。こんな大人は嫌だ、こんな大人にだけはなりたくないと思いました。
── 時代の空気に流されてしまうこと、今もあるように思います。かこさんの場合、そのときの経験が、やがて「子どもたちのために」という、思いにつながったのですね。
かこ 当時の大人は全部嫌だと思っていましたが、終戦のときには僕はすでに19歳で、大人の仲間入りをしていた。しかも、軍人になろうとしていた、誤っていた人間なわけです。そんな僕に残された道は、これからの子どもたちに、未来を託さなければということ。そうしなければ、僕自身が生きていく意味がないと思いました。
ただ、大学では工学を専攻したので(東京大学工学部応用化学科を卒業)、児童心理も何も分からなかったし、大学の他の学科に潜り込んでいろんな講義を聞いたものの、抽象論ばかりで具体的なヒントは得られませんでした。
それでいつしか子どもの実態に接することができる活動をしなければと考えるようになり、社会人になってから人形劇団プークの手伝いをさせてもらうようになり、やがて紙芝居を始めました。
それが僕にとっては非常に役に立った。「子どものために」と思ってはいたのだけれど、結局それが自分の生きる、一番の心棒になりましたね。これがとても、僕にはありがたかったです。
(構成/日経DUAL編集部 山田真弓)