「親というものは、こうでなければいかん」と父に教えられた

── 子どもを思う気持ちが、とても強いお父様だったのですね。

かこ そうですね。子どもの希望とズレてしまう面はありましたが、後になって、僕なんかに怒ったりしていたのは、父なりに一生懸命に子どものことを考えていてくれたのだということが分かってね。

 幼稚園時代、片田舎だからラジオを聞くなんていう家は当時は周りに一軒もなかったような時代でしたが、父は30mくらいのアンテナを張って、朝顔形のラッパのラジオ設備を整備してラジオを聞いたりしていました。米国コダック社の大型写真機や引き伸ばし機など、当時としては先進的な写真機材と現像薬剤をそろえていました。

 そういう先進的なことをしていた点でもすごいと思うんです。しかも、こうして写真を遺してくれていた。今回本にすることで、父の良い点を見いだすことができました。

 欠点だらけで、お話にならない恥ずかしい点もいっぱいあるんだけれども、自分ができる範囲で、考えられる範囲で一生懸命やっていた。僕は、親というものは、こうでなければいかんのだなと教えられましたね

「何とかして自立しなければならない」と常に思っていた

── かこさんは子どものころから絵を描くことに長けていらっしゃったのだと思いますが、中学2年生で目指したのは、軍人だったのですよね。

かこ 父は一生懸命真面目に仕事をしていましたが、安月給でしたし、子どものころは貧しく、しかも僕は三人きょうだいの末っ子でしたので、「何とかして自立しなければならない」と常に思っていました。一方で、勉強を続けたい、知識も学問も身に付けなければという気持ちもありました。

 その点、軍人の学校に行って勉強するのであれば、入った途端に給料をもらえるし、任官すれば生活もできる。なんとかして父にあまり負担をかけないように自立したかったんですね。当時は軍国主義の空気が強くはありましたが、僕は時勢にばかり流されたのではなく、最後は自分の判断です。

 ところが近視が進んで視力が0.3まで落ち、学校から受験さえ認めてもらえなかったんです。視力は0.8以上なければならなかった。4年生のときに受験ができなかったので翌年にまた…と思ったら、かえって視力が落ちてしまいました。

 すると、それまで僕が軍人の学校を目指していることを「頑張れ」と言ってくれていた校長以下先生すべてが、手のひらを返したように、「なんだおまえは。軍人にもなれないような体か」と言うようになりました。

 僕は、それがおかしいなと感じたんです。軍人はもちろん国のために働くけれど、農家だってなんだって、世の中のためになろうと思って務めている。それを軍人だけが特別であるかのように言うのはおかしいと思いました。そこで、違う道に進もうと考えて、技術者の道に進もうと考えました。