「このクラスをつくったのは俺たちだ」僕はやっと変われた

―― 自分で選んで選び取って、学びをしていくということが大事なキーポイントなんですね。

岩瀬 自分で決める、選ぶというのがやっぱり学びの一番の根幹。それって学びに限らず、遊びも全く同じですけどね。

―― そうですね。与えられた遊びでなく、自分でこれをしたいという気持ちが大切です。

岩瀬 卒業式の後って教室で必ず丸くなってみんな一言言って解散するんですが、それはだいたい担任へのお礼を言う時間で、僕が気持ちよくなるっていう時間だったんですね。

―― なるほど(笑)。

岩瀬 でも、ちょうど本城が見に来てくれたころの卒業式のとき、その年の子たちを僕は2年間担任したんですけど、「本当にありがとう、みんなのおかげで本当に楽しかった」と、感謝の言葉を僕ではなくお互いにしか言わないんです。お互いへのお礼とか感謝とかばかりがクラスに出てきて、僕がたまらず、「いや分かるけど、僕に対しても、少しはお礼を言ってもいいんじゃないか」って言ったら、「いや先生も頑張ったけど、結局このクラスをつくったのは俺たちだから」って言われたときに、「あぁ、僕はやっと変われたのかもしれないな」と思いました。典型的なのが、卒業した後にそれ以降の子たちは全く連絡してこないんです。道で会うと話をするんですけど、わざわざ遊びに来るということはあまりしなくって。

―― 親の役割を終えたようなですね。

岩瀬 その前の子たちは「あのころ、楽しかったよね」って連絡をくれたりするんですが、そういったことが全然なくなりましたね、寂しいくらいに!

―― 30歳ごろに子どもたちとの関わり方を変えようと思って、すぐに変われたんでしょうか。

岩瀬 経験を積んでそういう場面はたくさん増えてはきますが、もちろん自分も手放せないことがたくさんあったので、僕は40歳くらいまで10年かけてじわじわと変わっていったんだろうなと思います。変わったつもりができていないことがたくさんあって。でも、その中でやっぱり担任を受け持つのが1年だけという難しさを感じていました。毎年4月がスタートで、3月で1回終わりを迎えなければいけない。それでできることもあるんだけど、この時間軸が6年だったらどうなるだろう、これが9年だったらどうだろうと思うと、子どもってもっと自分の力で前に進められるようになっていくんじゃないかなって。いつかそういう6年とか9年のチャレンジをしたいと思っていました。

―― 学校を辞めたのは、学校の現場で一人でするよりは研究の場で全体をよくしたいという思いがあったのでしょうか。

岩瀬 現場のアプローチはどうしても教室や学校までのチャレンジしかできない。一番上の娘が今大学生なんですが、小学生のときに「学校がつまらない」という時期があって。それ、僕にとってはアイデンティティーの危機なわけですよ。僕の仕事場をつまらないと、近くの違う学校で言っているわけで。自分の学校だけにアプローチするのも駄目だな、こういう子たちいっぱいいるよな、と。どうやったら広がるかっていうことで、本を書いたり、ワークショップを始めたりしたのですが、それでも限界がありました。その頃、大学の教員になる話があったときに、「あ、教員養成に関わって、先生が変わることに貢献できたらもしかして変わるきっかけって増えるんじゃないかな」と。それで、大学へ行って教員養成に関わってみようと思い、大学に行きました。

―― 幼小中ですと12年かけて子どもたちと関われますね。

岩瀬 12年かければ、人が持っている力が発揮できる場がつくれるんじゃないかなと思ったのが、このプロジェクトにぐっと気持ちが入ったきっかけですね。

本城 岩瀬も「学校をつくります」って、エイプリルフールに書いたことがあったんだよね。

岩瀬 学校を辞めて、大学院で働くようになったころかなぁ。エイプリルフールに「学校をつくります」ってブログに書いていたことがあって。だから、つくりたいという気持ちは常にあったんですよね。

■1ページ目に「一般社団法人 軽井沢風越学園が開校する」とあったのは、「軽井沢風越学園が開校する予定だ」の間違いでした。修正してお詫び致します(2018年1月11日)

(文・構成/日経DUAL 加藤京子、写真 品田裕美)