6歳男の子の子育てをしていた専業主婦が、父の急逝を受け、32歳で突然町工場の社長に……。精密金属加工メーカーのダイヤ精機の代表取締役社長の諏訪貴子さんが、2004年に社長になってから10年の奮闘を綴った『町工場の娘』(日経BP社)。本書籍を原作としたドラマが、11月24日(金)(22時~、NHK総合、『マチ工場のオンナ』)から放送されます。

 諏訪さんは、亡くなった父の後を継ぎ、経営難に陥っていた会社で数々の経営改革を断行。リーマン・ショックや東日本大震災、歴史的な円高などの危機も乗り越え、3年連続で売り上げを伸ばし、会社を成長に導きました。生産管理のIT化や若手社員の育成など、中小製造業が直面する課題を次々と解決し、自社の成功事例を積極的に情報公開しています。

 今回は、諏訪さんに経営者の姿勢や若手育成論、仕事と子育ての両立について伺いました。上下2本でお届けします。

働いていて1番理解し、協力してくれたのは息子

日経DUAL編集部(以下、――) お父様が急逝されて、突然社長を継ぐことになったとき、諏訪さんは専業主婦で経営経験もゼロだったと伺いました。迷いはありませんでしたか?

諏訪貴子さん(以下、敬称略) とにかくやるしかない状況でした。社長をやると決断したときに、この道はもう後戻りできない、と覚悟を決めました。社長をはじめてから迷いはないです。

―― 当時、息子さんは6歳だったとか。母親が突然働くことになり、どのような反応でしたか?

諏訪 息子にとっては厳しかったかもしれませんが、私の父が亡くなるシーンを見せたんです。核家族化が進んでいる中、なかなかそういう場面を見せることができないので、命の大切さを刻んで欲しいと思ったからです。ショックは大きかったみたいですが、本人は祖父の死を含め、自分の置かれた状況を分かったようです。親が思っているより、子どもは理解していると思います。

―― 社長就任と同じタイミングで夫はアメリカへ単身赴任されたのですよね。いまで言う“ワンオペ育児”の中、社長業と子育てはどのように両立されたのですか?

諏訪 ちょうど息子が小学1年生になったところだったので、1人で学校に行って帰ってきていましたね。

 アメリカにいる父親へ会いに2人で渡航したときも、24時間くらいかかったのに文句1つも言いませんでした。むしろ乗り継ぎのときに、私の荷物を持とうとしたくらい。まだ6歳だったのに。父親から「お母さん頼むぞ」と言われたようで、その一言が彼の中にずっとあるんだと思います。親が思うより子どもは強いです。

 私が働いていて1番理解し、協力してくれたのは息子です。他の人に「子どもがかわいそうじゃないの?」と言われたときも、息子が「お母さんは仕事で忙しいから、ぼくは大丈夫」と、かばってくれました。