“知らない生活”に違和感を覚える子どもたち

―― 確かに、私の中1の娘は本の虫で佐藤さんの作品は大好きで読むのですが、私が子どものときに読んだ翻訳児童文学を薦めても「日本語が変」などと言って、なかなか読まないんです。

佐藤 そうなんです。何か抵抗があるようなんですね。私は娘の小学校で読み聞かせをしていたこともあるのですが、そのときの子どもたちの反応を見て、「翻訳ものはハードルが高いんだな」と感じました。娘が小学校高学年のころに『ナルニア国物語』の読み聞かせをしてあげたこともありました。でも、言葉が本当に入っていかないようでした。瀬田貞二さんの訳文は格調高い古語調なんですね。私自身は小学校高学年のころに『ナルニア国物語』を読みましたが、当時の私にとってもその言葉は明らかに古かったはずです。でも、私の世代はそのクラシカルな言葉に全く抵抗を覚えずに読めたんですね。

 『指輪物語』も娘は映画で見てとても気に入って「原書で読みたい」と言ったので、「これは本当に難しいよ」と言って原書を渡したことがあるのですが、本当に辞書を引かないと分からないぐらい難しい言葉が使われていて、なかなか読めなかったようです。翻訳本の骨太なファンタジーは、クラシックな言葉が好まれた世界でもありました。一方、リンドグレーンなどの日常的な物語の訳はそんな問題はほぼないと思います。もともととても柔らかい表現が使われているので、新訳を出す必要がないぐらいなのではないかなと思います。

 話を戻すと、青学の図書室にはそういった翻訳本がいっぱい入っていて、もう夢のような光景。あのときは日々図書室に入り浸って一生懸命読んでいましたよね。

―― 佐藤さんが自分で本を読むようになったのは、何歳ごろのことでしょう?

佐藤 母に言わせると、私は3歳で文字を覚えて、読み聞かせというものを通らず、絵本も通らず、文字の本を読むようになっていったそうです。3年保育の幼稚園に行っていましたから、その先生や親から文字を教わったんでしょうね。ちなみに私の母は専業主婦。私は一人っ子でした。

 本は家の色々な所で読みました。椅子やベッドだけではなく、空のバスタブとか、あと、障子と外のガラス戸の間に、ぎりぎり人が潜り込めるような狭いスペースがあって、そこに潜り込んで読んだりもしました。その狭いスペースで、小学生のときに『聖書』を読んだのをよく覚えています。あまり意味も分からず、クリスチャンでもないのに、旧約の創世記の部分を面白がって読みふけりました。重々しい神聖な感じが、隠れて読むのに合っていた気がします。

 海外の本を読んでいると聖書が出てくるんですよね。『赤毛のアン』とかね。それで家に聖書があったので気になって読んでみたんだと思うんです。