姉も40歳でがんに。在宅ケアの体制を整えた

西口 がん患者と向き合っている現在とは、まさに真逆の職場ですね。

秋山 そうですね。赤ちゃんが生まれる現場で臨床経験を積みました。その後看護教員にならないかという話をいただいて、大阪大学医療技術短期大学部(現・大阪大学医学部保健学科)で成人看護学講座の助手として4年間、指導する立場で働きました。その間に結婚して、子どもを産んで育児もするようになり、京都にある日本バプテスト看護専門学校に転職しました。ここは保育園も併設されていたので、仕事と育児が両立できると考えたんです。そうして仕事を続けていたら、2つ上で当時40歳だった姉が、転移性肝臓がんで余命1カ月という知らせを受けたんです。

西口 えー! 40歳で、余命1カ月……。

秋山 まだ年齢が若く、がんが一気に広がって勢いもついているからということでした。姉が受診した病院に行ってデータなどを見せてもらい、説明も受けましたが、肝機能がかなり落ちていて、抗がん剤を使うのもためらわれるほどの状態でした。もうこれは緩和ケアの段階だと思い、姉にとって「どこで過ごすのが一番いいのか」を考えました。

西口 お姉さんにお子さんは…?

秋山 当時、中学2年生と小学5年生の男の子が2人いました。入院していたら子どもと交流できる時間は少なくなります。姉はずっと専業主婦でしたから、やっぱり一緒に過ごす時間が大事かなと思って、思い切って家に連れて帰ったんです。

西口 でも、その当時は今よりもっと在宅医療の体制は整っていなかったのでは?

秋山 はい。でも、「整っていないからできない」のではなくて、「とにかくやってみよう」ということで、家に来てくれる医師や家事援助をしてくれる人をなんとか見つけました。多くの人を巻き込んで、まだ在宅医療の仕組みが社会的にないときに、チームを作って家でケアをしたわけです。

西口 秋山さんご自身のお子さんもまだ小さいときですよね。

秋山 上の子が年長、下の子が2~3歳くらいのときでした。だから、平日は子どもを保育園に預けて看護教員の仕事をして、週末は新幹線で姉の家がある神奈川に通うという生活をしていましたね。私としては、姉のことはとても気になるけれど、だからといって自分の生活をすべて放り出して姉の看病をするわけにもいかない。だから、外部の人に頼らざるを得なかったわけですが、それが逆によかったのかなとも思いました。自分で抱え込まずに済みましたし、信頼関係を構築してケアチームを組み立てることができたので。

西口 自分の代わりにお姉さんのケアを誰かに託すわけですもんね。

秋山 そうして家で過ごした結果、1カ月といわれた余命が4カ月延びて、姉は5カ月生きることができました。台所の隣の部屋に介護用ベッドを入れたので、子どもたちに「行ってらっしゃい」「お帰りなさい。今日はどうだったの?」と声をかけることもできました。

西口 家事は援助してくれる方々が分担してくださっていたんですか?

秋山 姉の夫もやってくれました。「今まで仕事人間で家のことは任せきりだったから、今度は有給休暇を使い果たしてでも看病する」と考えてくれて。でも、義兄は典型的な九州男児。洗濯機の使い方も知らないくらいだったので、やっぱり姉がベッドから夫に指示していて。義兄が洗濯物を洗濯機から出したまま干そうとするのを見て、「伸ばしてパン!ってしてから干して」とかね。家庭の主婦として40歳まで生きてきて、病気で家事はできなくなったけれど、そうやってコミュニケーションは取れる。姉にとっても家族にとっても大事な時間だったかなと思います。

西口 その時点では、秋田のお母さんはまだご存命だったんですか?

秋山 母は当時80歳で、秋田にいたんですが、看病をしたいと言って上京してきました。病院に入院してしまうと、姉は患者としての役割しかできないけれど、家だと子どもたちに対しては母親の役割、義兄に対しては妻の役割、母に対しては娘の役割、そして私に対しては姉の役割、そのすべてを果たすことができた。人間って、関係性の中で生きる動物なので、そういう社会的な役割が発揮できる場として、家という場所はやはり特別な力があるんだなと実感しました。

西口 治療はどうされていたんですか?

秋山 あまり食べられなかったので点滴はしていましたが、抗がん剤などのがん治療自体は一切していません。それでも、生活の場を家に移しただけで生きられる時間が長くなったんです。ちょうどそのころ、近い将来に夫の仕事の場が東京に移りそうだという話があって、自分も引っ越して仕事が替わるなら、これからは在宅ケアの中で看護を届ける仕事がしたい。そう思って、大阪の淀川キリスト教病院というホスピスのあるところで研修を積みました。それで、東京に移った1992年から、訪問看護に従事するようになったんです。