母親はある宗教団体に帰依しており、「お祈りの時間」には、音を立てることを一切禁じられました。我慢できずに逃げようとすると「ひきょう者!」と髪をつかまれ、たたかれたり蹴られたりし、トイレにも行かせてもらえません。「お祈り」は毎日1~2時間、時には4~5時間にも及びました。

 小野寺さんは勉強が得意でしたが、100点を取れなかったとき、母親に対する恐怖心から、ついテスト用紙を隠してしまいました。それが見つかったり、塾からの帰宅が予定より10分遅れたりしたときにも、怒りは爆発しました。

 母親は怒るときによく、甲高い早口で言いました。「他の家に行ってみなさい、どこも変わらないから! どこも一緒よ!」

 だから小野寺さんはどの家も同じだと思い込み、大人になるまで虐待されていることに気づきませんでした

 平日は早朝から深夜までほぼ不在の父が、たまに家にいると、母親はやや落ち着きを取り戻しました。小野寺さんには、母親が虐待を隠しているようにも見えました。このため父親には、息子が虐待されているという認識はなかったようです。後年「どうして母親を止めてくれなかったのか」と尋ねると、父親は「お前が殺されるようなことをしたからだろ」と、事もなげな口調で答えました。

 小学校3年生の夏、一度だけ耐え切れず、家から逃げ出したことがあります。近所に住む親切な「イシハラさん」の家まで行くと、明かりがついていて話し声がしました。しかし「事情を話したら、母親に何をされるか分からない」という思いから、助けを求めることはできませんでした。それでも5分ほど、そこに立ちつくしていたといいます。

虐待を自覚した大学時代、心は怒りでいっぱい

 小野寺さんは、県内の中高一貫校に進学しました。遠距離通学や部活のおかげで、親と離れる時間が長くなり、比較的穏やかに過ごしました。しかし一見、友人たちと楽しく話しているように見えても「普通を装っていた」だけだったと振り返ります。母親は、教師たちとの折り合いが悪く、担任に「あの親から離れないと、君の心はいつか破綻するよ」と言われたこともありました。早稲田大学理工学部に合格し、成績優秀者として奨学金を受けても、褒め言葉はありませんでした。小野寺さんは「幼いころからずっと、何をすれば母が満足するのか分かりませんでした」と話します。

 20歳のころ、虐待事件の裁判を傍聴するなどして、自分が「実刑レベル」の虐待を受けていたことに気づきます。「これが普通だ」と信じ込んでまひしていた苦しみが、息を吹き返しました