多くの日本人は英語の報道に接する機会がないため、世界で日本がどのように報じられているかに無頓着になっていると前回指摘したモーリー・ロバートソンさん。逆に日本国内の報道についても、世界とのギャップは大きいといいます。

 視聴者の感情に訴えかける映像を連日流すワイドショー、危険なもの、受け入れたくないものに関しては議論することすら避ける姿勢……グローバル社会を生き抜く力を子どもにつけさせたいと考える大人が、こうした状況に疑問を持たなくていいのでしょうか。モーリーさんが、日本人の情報との関わり方の問題点に切り込みます。

「こんな事故があってはならない」――日本のメディアは「憤りポルノ」

 6月に発生した大阪北部地震で、9歳の女の子がブロック塀の下敷きになって亡くなるという事故がありました。あのときは、事故から1週間経っても「この塀の下敷きになって、9つの女の子が亡くなりました。現場には、今もあふれんばかりのお花が供えられています」といったリポートがワイドショーで流れ続けました。

 夕方の報道番組では、「昭和〇十年代にはこういう手抜き工事が多かったんですよ」という専門家の電話インタビューの声を紹介。それを受けて、出演者がみんなで「〇〇ちゃんの命は救えたのに」と言う。そして最後は、子を持つ母親が涙ぐんでいるワイプで締めくくります。

 これは「報道」なのでしょうか?

 イケイケドンドンで手抜き工事をよしとした日本の経済成長のつけがこういう形で40年後に回ってきた。私たちの繁栄は、実は薄氷の上に成り立っていた。その現実を直視し、これからどうリスクと付き合っていけばいいのか――。こういうことを話したほうが、女の子の犠牲も報われるはずです。ひたすら「こんなことがあってはならない」「みんなで点検をしたら危険な場所は他にもこんなにありました」だけでは、ただの感動ポルノ、憤りポルノになってしまう。でもこれが、論理よりも情緒や共感を重視する、日本のメディアのスタンスです。

 あとは、番組の都合で「そこにない世界」を語らされるということもありました。6年ほど前ですが、「世界の人たちは、福島の原発事故をきっかけに日本の野菜を買わなくなっている。それで困って、こういう問題が起こっている」みたいな強引な筋書きを提示されて、それを裏付けるニュースを探してこいとある情報番組のスタッフに言われたんです。僕が「ないです。一部のタブロイド紙などでは日本の放射能は怖いとあおっていますけど、世界全体で見たらそれほど怖いとは言われていません」と答えると、大体不機嫌になりました。