日本に関する英語報道では、背景を無視した単純化が起こる

 一口におもてなしと言っても、誠意のある心のこもった接客もあれば、マニュアルだけで「いらっしゃいませこんにちはー」って口だけ動かしているみたいなサービスもありますよね。でもその記事は、おもてなしと働き方改革を関連付けて、働き方改革は何の意味もない、日本は一億総ブラック国家だ、みたいな方向性に持って行っていました。みんな我慢しすぎるし、移民を受け入れないからそうなるんだと。

 要は、日本語が分からない特派員が支局長と日本にやってきて、取材を現地の日本人に投げて、上がってきた原稿を通訳が翻訳して、適当なピクチャーにはめ込んで配信しちゃう。だから雑なんです。

 今、世界で「#MeToo」の動きが広がっていますが、レイプ被害を訴えた伊藤詩織さんの問題は、日本の「#MeToo」を推進することにはならなかった気がします。それは、彼女の問題がある意味、与党対野党という図式の中で政治の小道具になってしまったから。女性が一致団結するムーブメントよりも政治の力学がまさってしまう異常さは欧米とも共通していますが、そもそも日本はフェミニズムを通っていないことが災いとなって、今回も成長のチャンスを逸してしまった感があります。

 本来は政治的な背景など関係なく、「レイプはレイプだ」っていうのが「#MeToo」のはず。でも、日本の非常に分断した政治のランドスケープの中に、ポトンとこういう出来事を落とすと、燃料になるだけでまともな議論が進みません。そのことをニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストに書かせると、「日本はセクシスト国家。レイプしても誰も告発しないし、首相が警察に逮捕を取り下げさせる」なんていうふうになってしまう。

 本当はもうひとしぼり、あるわけです。でもそんなことを仮に通訳を介して説明したとしても、外国人記者はだんだんじれったくなって、「分かった分かった、だから要するに日本はセクシストなんだろ? もういいよ、帰るよ」みたいになってしまう。日本はみんなブラック、経済はもう壊滅状態、女性も子どもも性的に守られない。そんなわけないでしょう?

 

 日本人がもうちょっとまともに、国際基準で自分たちの言い分をバランスよく主張できていればいいのですが、日本人は雄弁に発信してこなかった。その結果、こうした単純化したレッテルが広まってしまうのです。今回の詩織さんの件は、欧米の「#MeToo」よりも中東や南アジアでの女性の人権問題に通底するものがあるかもしれませんが、それも言葉の壁によって女性同士が覚醒できないようになっている。不幸中の幸いは、詩織さんが英語ができて、自ら英語で海外発信していることだけど、これも不十分さを感じます。