日本画家の父、絵本作家の母の下で育った土屋礼央さん。家族で過ごした思い出は世間一般とは少し様子が違ったようですが、一方で、両親からは周りに左右されない自分の価値基準を持つことの大切さを学んだといいます。高校時代、通っていた進学校の中で唯一大学には行かず、音楽をやるという決断を後押ししてくれたのも、父親の言葉でした。

「太い筆で細く描くのが味」深過ぎる父の教え

 今回は、いかにして今の土屋礼央ができたか?をもう少し振り返ってみたいと思います。前回お話しした通り、土屋家は父も母も妹も絵を描く芸術一家。作品と向き合う時間をお互い大事にしていたので、家族そろって何かをするということはあまりありませんでした。

 旅行に行くことはありましたが、大体が日本画家であるおやじの写生に付き合わされるパターン。大分県の大船山の山奥に1週間とか連れていかれました。楽しいも何も、子どもにとっては「何でこんなところ?」みたいな場所ですよ。かろうじて旅行らしい旅行と言えるのは、沖縄1週間と北海道1週間くらい。小学生のときでしたが、あれは楽しかった記憶があるなあ。

 家族みんなが絵を描くのに、何で僕は絵の道に進まなかったのか? それはたぶん、ずる賢かったんでしょうね。このまま絵を描いたとしても、おやじの存在が大き過ぎて面倒臭いなと思ったりしていました。

 若いころって、先の細い筆で写真のように写実的な絵を描きたくなるものなんですよね。それで中学生のとき、おやじに「細い筆を買ってくれ」って言ったら、「それは安易な考えだ。太い筆で細く描くのが味だ」と返されました。あと、これはいろんなところで話していますけど、美術の宿題で描いた絵を、一応提出する前におやじに見せたんです。そうしたら「空を青で描くなんてもったいない。青いというのは事実であって、これは絵なのだから、この空がおまえの心では何色に見えているかを描けるのが絵画なんだ」と言われたこともあります。

 こういう教えを常に受けているわけですから、「これはダメだ、偉大過ぎる!」と思ってしまったわけです。それに、小さいころから両親と絵ばかり見に行かされたので、おなかいっぱいだったのかもしれません。家族旅行が写生の旅なら、家族のお出かけは画廊、美術館めぐり。銀座、銀座、上野、上野です。まだ子どもですからね、「つまんないな、なんだこのくらーい絵は」みたいなことを思っていました。

 一方で、歌うことは昔から好きでした。通っていた幼稚園の歌の授業にハンガリー音楽の合唱団の先生が来てくれていて、卒園してからもスライド式にその「あすなろ合唱団」っていうところに入ったんです。それが本格的で。夏の合宿ではコールドストップといって、冷たいものを飲まないで一日中発声練習みたいなことをするんです。そういうのが嫌いじゃなかった。中学生になるころには、合唱団以外で歌ったことも曲を作ったこともないのに、「俺が作った曲、絶対売れるわ~」ってなぜか頭の中で思っていて、迷わず将来は音楽でやっていくと決めていました。