人間は自分の寿命に気付かない生物
西口 先生が今まで接してこられた方の中にもいらっしゃると思うのですが、がんになっても働くことについて、どう思われますか? 働いたほうがいいと思われますか?
樋野 今はがん全体では5年生存率が65%になっていますし、がん患者も働く時代です。でも、抗がん剤や分子標的薬などをずっと使っていると疲れやすくなりますし、手がしびれたり、髪が抜けたりもしますから、病前と全く同じように働くことは難しい面があるのも事実です。
休職するにしても、大企業は長い期間休むことができるでしょうが、中小企業では大企業と同じようには休めないこともあるでしょう。ですから、健康だったときとは少し価値観を変えることが必要で、自分の生きがいを働くこと以外に求めたほうがいいと私は思います。
西口 僕はもともと営業をやっていて、仕事に復帰した後もしばらくは営業をしていたんですが、体調のこともあって数字が上がらないので、今は内勤の仕事にしてもらいました。その過程で価値観が変わりました。
それまで営業としてお客さんのためというスタンスで仕事をしていましたが、自分ががんになってまでお客さんのため、というのは少し違うかなと思い始めたんですね。それなら、これまでお世話になった会社のみんなのために何かやりたいという気持ちで、今はバックオフィスの仕事をしています。
樋野 人間は自分の寿命に気付かない生物です。多くの人は、自分があと何十年も生きると思っています。でも、人間は誰でも必ず死ぬ。ですから、やっぱり自分の生きがいや使命は何かということを考えたほうがいいと思うんですね。会社や仕事を離れて、本人の心構え次第で、一人でもできることを考えておかないといけません。
西口 僕個人としては仕事そのものが生きがいというか、それが治療にもいい影響を与えていると思っているんですが、そうじゃない人たちもたくさんいますよね。ですから、働くべきだとか会社はこうあるべきだとかはちょっと違う。「どっちでもいいんじゃない」という多様性を認めないと、しんどくなってしまうかなと思います。
樋野 例えば、1個の細胞を地球の大きさに例えると、染色体は国の大きさになり、遺伝子は街の大きさになり、塩基は1人の人間の大きさになります。
がん細胞は1個の塩基が突然変異することによってできるので、言ってみれば「1人の人間が地球をがん化させる」ようなものなんです。そんなふうに、1人で世界を動かせると思う胆力を持たないといけませんね。
西口 なんだか就労問題が小さく思えてきました(笑)。
すべて忘れた後に残るのが教育。小学生時代から「がん教育」を
西口 今、「キャンサーペアレンツ」の会員の平均年齢は42歳です。これからのがんをとりまく環境をつくっていく世代だと思うのですが、先生からそういう若い世代のがん患者に対して期待することというのは何でしょうか?
樋野 今の日本では、「健診や検査を受けましょう」というふうに、がんに対しては予防を中心にやっています。でも、もうがんは2人に1人がかかる病気で、予防はできないと思ったほうがいい。ですから、そういう事態が起こったときの心構えをしておく社会をつくったほうがいいと思います。
西口 がんにかかるかもしれないということを前提として、それについて考えておくということですね。
樋野 小学生時代に心構えをしておけるといいですね。これは東京大学の総長を務めた政治学者の南原繁の言葉ですが、「すべてのものを忘れた後に残るのが教育」ですから。小学生のころに言われても分からないことがたくさんあるかもしれませんが、その子が30歳、40歳になったときに思い出します。それでいいのです。
西口 僕ら世代の子どもたちは感受性が強い年代ですから、まだアウトプットはできないけれど、何かしら学んでいるはずですよね。親ががんになったということは、子どもにとっては他の人と違う経験になるという側面もあると思うので、糧になってくれたらいいなという思いがあります。
樋野 「キャンサーペアレンツ」のお子さんたちは他の子どもたちよりも、将来大人になって様々な困難に遭遇したとき、いかに対応したらいいかを既に学んでいると思いますよ。
西口 会員の方たちは小中学生のお子さんがいる世代なので、そういう責任はすごく感じていますね。自分の子どもだけではなくて他の会員のお子さんに対しても、何かできることはないかと思って行動しています。
樋野 やっぱり、がん患者であろうと誰であろうと、個性があるのです。それを引き出すにはどうしたらいいか。そういうことを日本の社会がもっと気にかけてくれたらいいと思いますね。
(取材・文/荒木晶子、日経DUAL編集部 撮影/阿部昌也)