けがによるマイナスは一つもない。プラスは120点くらい

―― 普通は、何かのスポーツを始めて、うまくなって、最終的に目指すのがオリンピックだと思いますが、成田さんの場合はまずオリンピック出場ありきで、次に出る競技を選ぶという、順番が全く逆ですね。スポーツに好き嫌いはないんですか?

成田 それはありますよ。やっていて楽しいと思えるものもあれば、必ずしもそうじゃないものもあります。でも、僕の好き嫌いなんて個人の感情なので、そんなものは判断材料に含まれません。目標に向かって最短距離を最高速度で突っ走ることが大事なので。でも、スポーツの楽しさって、突き詰めると自分が成長していくことを体感できることにあると思うので、うまくなっていくことを感じられればどんなスポーツでも楽しめますよ。

―― 本当にあらゆる点で独自の理論、確固たる考え方をお持ちですが、そういうご自身の原点みたいなものはどこにあると思いますか?

幼少期の写真。左が姉の夢露さん(現、今井メロさん)、右が兄の童夢さん
幼少期の写真。左が姉の夢露さん(現、今井メロさん)、右が兄の童夢さん

成田 …父とか、家庭の教育のたまものと言わせたいんですか?(笑)。確かに僕が育った成田家は兄も姉もスノーボードでオリンピックに出場したアスリートで、父には物心つく前からオリンピックを目指すための厳しい練習を強いられました。でもそのときは自分で考えるのではなく、父から命令されて動くロボットのような日々だったんですよね。だから今のような考え方はそこから出たものではないと思います。

 あえて挙げるなら、やっぱりけがをしたこと。そして、それから自分との誓約書を始めたことでしょうか。けがをしてから、ウェイクボードの大会に出て優勝したことがあって、そうしたらSNSで障害のある人から「勇気をもらった」というようなメッセージをいただいたんです。それで「自分がスポーツをすることで、誰かを励ますことができるんだ」ということを初めて知り、先ほども言った「障害のある人、けがをして引退を迫られている人、一般の人に夢や感動や勇気、希望を与えられるようなすてきなスポーツアスリートになる」という目標を掲げるようになったんです。今の僕にとっての支えともいえる自分との誓約書も、それから始めたこと。けがをしたことは、僕にとって人生最大のターニングポイントだったと思います。

―― ということは、左足にまひが残るほどの重傷を負ったことは、成田さんにとってある意味ではいいことだった?

成田 それは、完全にいいことでした。けがをして悪かったことは一つもないですね。プラスは120点くらいあります(笑)。あのけががなかったら今の成田緑夢はなかったですし、これから成し遂げることも実現しないだろうと思います。

けが後、父・隆史さんと話す緑夢さん
けが後、父・隆史さんと話す緑夢さん

成田緑夢(なりた・ぐりむ)

1994年生まれ、大阪府出身。2013年3月フリースタイルスキーのハーフパイプで世界ジュニア選手権を優勝するが、翌月、練習中の事故により腓骨神経左膝麻痺をきたし、障害を負う。その後、懸命のリハビリを乗り越え、障害者アスリートとして、2016年からスノーボードと陸上競技の走り高跳びに挑戦。同年の日本パラ陸上選手権において走り高跳び2位の成績を収め、さらにスノーボード競技では、全国障害者選手権大会と障害者スノーボードのワールドカップで優勝を果たす。2018年の平昌パラリンピックに出場し、スノーボードクロスで銅メダル、バンクドスラロームで金メダル獲得。現在の本人の目標は、「アジア人初のパラリンピック、オリンピックの両大会出場」。

(取材・文/日経DUAL編集部 田中裕康)