母親は大卒、父親は高卒でした。母親は自分より学歴の低い父と結婚したことを悔やみ、子どもを通じて人生をリベンジしようとしたのかもしれない、と池井多さんは推測します。

 小学校3年生から、連日深夜1時、2時までの受験勉強が始まりました。成績が振るわない時、母親は彼をたたいてこう叫びました。「あなたが怠けたら、お母様は死んでやるからね!」。実際にテストの点数が悪いと「海へ行きます」と書き置きを残して外出し、自殺するそぶりを見せることもありました。「母は『死への恐怖』を使って、私を支配しようとしていました」と池井多さんは話します。

強迫性障害で「井」の字が書けない 暗黒時代だった小学校高学年

 池井多さんは非常に早熟で、「幼稚園で小6までの漢字もローマ字も理解できた」ほどだったそうです。当時から友達といるより一人遊びを好み、恐怖心やこだわりも強い傾向がありました。そして受験勉強が本格化した小学校5、6年生の時、幼い頃から兆しのあった強迫性障害の症状が強まったのです。「人生の暗黒時代。我ながらよく生き抜いた」。本人がそう振り返るほど、つらい時期でした。

 特に困ったのが、漢字の「井」や「田」などの字が正しく書けなくなったことだといいます。「四辺を線で囲まれた空間ができると、真ん中に点を打たないと気が済まないんです。そうしないと真ん中の空間が破裂して、母を乗せた霊きゅう車が飛び出してくるという妄想にとらわれていた。自分でもなんてばかなことを考えたのか、と今は思うのですが……」

 例えば「井」が正解だと分かっていても「丼」と書かずにはいられない。そんな状態のため、漢字テストはいつも大幅に減点されました。「暗に母の死を願う自分と、母は僕のためにやってくれているのだから、そんなことを思ってはいけないと止める自分との葛藤があったのです」

 一家は父親の転勤によって、5年生で東京から名古屋市へ引っ越します。しかし池井多少年は毎週末、新幹線で東京の塾へと通わされました。上京のたびに母親に「この金食い虫!」とののしられ、「ごめんなさい」と泣きじゃくりながら……。

 成績が下がっても悔しさや悲しさはあまり感じませんでした。ただ、「お母様の怒りを収めるため」に、無理やり涙を絞り出したことはありました。「母親の操り人形のように勉強していただけ。どこか他人事でした」と池井多さんは振り返ります。

「母親へのプレゼント」で大学合格、しかし母は…

 池井多さんは名古屋市にある中高一貫の進学校に合格し、高校では生徒会長も務めました。成長とともに暴力を振るわれることはなくなりましたが、母親の罵詈(ばり)雑言や、日記を盗み見るといった過干渉は続きました。

 池井多さん自身、学校ではうまくやっているように見せていたものの、相変わらず強迫性障害の症状に悩まされていました。「母親は依然として自分に覆いかぶさる、巨大な権力でした。今も完全に逃れたとは言えません」

 一橋大を受験し合格したのは「母へのプレゼントのようなもの」だったと言います。母親に出された「人生の宿題」を果たした。当然褒められ、感謝されるだろう、そう考えてお祝いの席に着いた池井多さんに、彼女は言い放ちました。

 「お前の英語力じゃとても授業についていけないから、明日からは英語を勉強しなさい。そして一流企業に入りなさい。怠けたらだめよ」。褒め言葉は一言もありませんでした。

 大学4年で就職活動を始めましたが、総合商社の最終面接で社屋の前まで来て、突然足が前に進まなくなりました。向かいの喫茶店に入ってみたものの一歩も動けず、そのまま面接を欠席。なんとか大手旅行代理店の内定は得ましたが「人生終わったと思いました。好きな旅行にたずさわる仕事だ、と自分を納得させようとしても、やりがいのある仕事やお金をもらえるといった明るいイメージは何も持てませんでした」。寮の部屋にひきこもり、うつ病を発症。内定を辞退しました。

 「このまま就職したら、母親がしてきた行為をすべて肯定することになる。『お母様、僕はあなたの虐待のおかげでここまで来れました』と、感謝しろとでも言うのか? 冗談じゃない、という考えが、うつ、ひきこもりの引き金になったと思います」