親が再認識すべきことは、子育てとは「無功徳」ということ

 

 受験が終わった後は、親自身も心を調整していくことが大切です。私が昔中学受験に失敗した時、私の両親は「残念だったね」とは言いましたが、「あーあ、あんなにお金をかけて塾に通わせたのに」とは言いませんでした。 両親は別に何か見返りを求めて私を中学受験にチャレンジさせたわけではないのだ。そう実感した時、私はとても心が軽くなりました。その時のことを思い出すたびに、私の中には子育てとは『無功徳(むくどく)』 であるという言葉が浮かんできます。

 そもそも「無功徳」という言葉は、達磨大師の有名な言葉です。中国・梁(りょう)の武帝はたくさんの寺を建立し、たくさんの僧を育ててきました。そこで武帝は達磨大師に問いました。「これだけのことをしてきた私には、どんな御利益がありますか?」。すると達磨大師はこう答えたそうです。「無功徳(そんなものは何もありません)」。 見返りを求めて行う「善行」は、その時点で「善行」ではないのです

 でもそれは、 子育てにおいても同じことが言えるかもしれません。他人から賞賛される子どもを育てるのが「子育て」ではない。私たちは、何か自分にリターンがあるから子育てをしているのではない。子育てをしているうちにどうしても、よその家庭のお子さんと自分の子どもを比較してしまうこともあるでしょう。そして世間体を気にしたりすることもあるでしょう。でも子どもが生まれてきたとき、私たちは子どもの「重み」を感じながら、そんなことを考えていたでしょうか。ただ「子どもの人生が幸せなものであるように」。願っていたのは、ただそれだけではありませんでしたか?

 教育学者の森信三さん(1896~1992)は、「教育とは流水に文字を書くような果てない業である。だがそれを岸壁に刻み込むような真剣さで取り組まねばならない」といった言葉を残しています。この言葉は今、私がとても大事にしている言葉です。 見返りなんて何もないかもしれません。でもガッツリ子どもと真剣に向き合って、一緒に泣いたり笑ったりして生きていく。それは「子育て」であり「親育て」なのです

 子どもの受験は、親が子育ての原点を見つめ直すいい機会かもしれません。悲喜こもごもの季節ですが、親子で一つの山を乗り越える。そんな気持ちでおだやかな「春」を迎えたいですね。うまくいっても、うまくいかなくても「それは、それ」。次の瞬間から、もう新しい人生は始まっているのですから。

(聞き手/赤根千鶴子)