頑張った分だけ人生は豊かになる

 私には兄がいるのですが、私が中学受験をした時に、兄は既に開成中学の生徒。兄が受かったのだから、私も兄ほどに成績優秀ではないけれど、たくさんのものを犠牲にしてこれだけ勉強したんだし、まあ落ちることはないだろう……くらいに考えていたのです。その年、2月1日の東京は大雪で悪天候でした。試験会場に行ったら、なんと会場には半分くらいしか人がいません。「おっ、これなら僕、受かるかも」と思いました(笑)。しかし試験は翌日に。その日の朝も震度5の地震があったのですが、試験は予定通り行われ、そして合格発表に私の名前はありませんでした。

 その時はさすがに落ち込みました。小学校4年生から塾に通い、友達と遊ぶこともほとんどなく、すべてを受験勉強に費やしてきたのに。なんだよー、裏切られた! そんな気持ちになりました。でもあれから28年たって思うのは、あの時、開成に落ちたことも自分の人生にとっては貴重な経験だったということです。もし普通に試験に受かっていたら、私が人生の中で「物事がうまくいかなかった人の気持ち」を若い時に考えることはなかったでしょう。そして 毎日何も言わずに塾に迎えに来てくれた父、夏期講習の時に毎日お弁当を作ってくれた母のありがたみに気付き、心から感謝することもなかったかもしれません

 中学受験がうまくいかないと、親もつらいものだと思います。でも一番つらいのは、やはり子ども本人です。私がもし昔の私に言葉をかけてあげるなら、この言葉を選びます。
『古人刻苦光明必盛大也(こじんこっくこうみょうかならずせいだいなり)』

 これは中国・宋の時代に活躍した慈明(じみょう)禅師が座右においた言葉です。慈明禅師は坐禅中に眠くなり、これではいけないとキリで自分の太ももを刺し、この言葉を信じて修行にまい進したそうです。「苦労を惜しまないで努力をしていれば、頑張った分だけ、悩んだ分だけ、必ず物事は光明(=人生の豊かさ)として戻ってくるんだよ」という意味です。

 受験でうまくいかなかったときは子どもといえども、いえ、子どもだからこそ虚無感にとらわれたりするものです(私自身がそうでしたから)。でも長い人生の中で試験に「受かった」「受からなかった」などということは所詮目先の話でしかないのです。たとえいい結果が出なかったとしても、ここから一番大切なのは、 子どもが自分なりの光を見いだして、“前に進んでいくこと”です

  今まで一生懸命努力してきたよね。お父さんも、お母さんもそれはよく分かっているよ。でも人の人生の目標って、決して試験に受かることだけじゃないんだ。「みんなのためにこんなものを作りたいな」「こんなことを勉強して、もっと便利な世の中にしたいな」。そんなふうに「自分がやりたいこと」「自分が勉強したいこと」をはっきり持つことが大事なんだよ。

 そしてその目標を実現するためにがむしゃらに努力していくことが大切なんだ。泣いたり、「もう勉強やーめた」なんて思ったら、今まで努力してきたことがもったいないよ。人は、自分の目標に向かってずっと努力するものなんだ。その努力は必ず「自分自身の力」になるんだよ。一生懸命努力して、無駄にしかならないものなんて、この世には何一つないんだからね。

 お子さんにはそんなふうに語りかけてあげてください。今の日本の臨済宗の教えは、江戸時代中期の禅僧・白隠慧鶴(はくいん・えかく)禅師が集大成したものなのですが、白隠禅師も修行に行き詰まった時期がありました。 その白隠禅師を救ったのも『古人刻苦光明必盛大也』という言葉でした。つらいことから逃げるのは簡単です。でも前に進むためには子ども自身がつらいことを“乗り越えること”、そして“骨を折ってがむしゃらに努力する姿勢”を忘れないことが肝心なのです。