「ありのまま」を出せる子どもたちに、安心する瞬間

 区長となった今も激務ではあるし、保育園の送迎や食事はパートである夫に任せきりとも言える。親として、すべてを子どもたちに与えられているという自信はない。それでも、私は少しだけ「自分が欲しかった親」になれていると思う瞬間がある。

 テーブルに向かって書類を眺めていると、息子が膝にボン、と乗ってくる。そのいかにも当たり前の態度と柔らかな重みに、戸惑う。幼い自分が、継母に対してできなかったこと。彼の腰に片手を回して受け止め、その小さな手で仕事の邪魔をされながら、感動すら覚える。この子は、親である私に安心しきっている。11歳の娘に朝の支度のペースアップを促すと「ちゃんと急いでるし」と口答えをされる。ムッとしながらも、ふてぶてしく思ったことを言えるってスゴイなぁ、と感心している自分がいる。継母の理不尽に決死の思いで言い返した時、「今の態度はなんだ」と蹴られたことを思い出す。この子は、私を恐れない。堂々としている。腹が立つのに、うれしい。

 親として、子どもがありのままの自分が出せる相手でありたい。家庭は、子どもがわがままを言えて、心の底から伸び伸びできる場所であってほしい。正しい家庭や親子関係を体験していない自分にとって、精いっぱいの目標だ。

 先日、ある講演会の中で「自分の傷を自覚している人は、虐待の連鎖にならない」という言葉があった。そうか、と思った。早いうちから、私は塾やボランティアの場面で出会う子どもたちに語るために、自分の過去と傷に自覚的だった。彼らを助けるための対話に、実は自分が助けられていたのだ、と。