親子のコミュニケーションの始まりはそもそも言葉を使わない

 そもそも、生まれたばかりの赤ちゃんとママの初めてのコミュニケーションには言葉は伴いません。まさに「ノンバーバルコミュニケーション(言葉を使わないコミュニケーション)」です。そこではママがコミュニケーションのしかたを赤ちゃんに教えているわけではないはずです。実は、ママのほうが子どもからコミュニケーションのしかたを学ぶのです。

 まだ言葉を使い始める前の子どもには、大人の言葉だけで話しても伝わりません。大人は違うコミュニケーションを学ばざるを得ません。こうして、子どもと大人のコミュニケーションのためには、全身のあらゆるパーツを使うことになります。大人もボディランゲージを駆使して気持ちを伝えようとすることで、より子どもの感情も理解することになるはずです。

 子どもは目に見えるものに敏感で、自分たちの感情を全身で表現することも非常に上手です。それはなぜだと思いますか? 恥ずかしいとか、間違えていたらどうしようとかいったことで、ちゅうちょしないから、なのです

 これから子どもたちが、国際社会においてだけでなく、もっと身近な人ともコミュニケーションするときに必要なのは、言葉を使って話すという意味の対話だけではなく、顔の表情だとかボディランゲージによって理解し合うことです。これと同時に大事なことは、言葉や音声などの制約がある中で、自分が表現したいことをちゅうちょなく表現するということ。案外これが難しいのです。どんな言語であれ、思ったことを表現するときのとまどいだとか、会話の口火を切るときの恥ずかしさだとかを克服しながら、みんなコミュニケーションをとっているわけですね。自分の弱さを受け入れて、どうにかして伝えたい・伝えられたいということが大切になってくるのです。

自分をありのままに受容すると、ほんとうの「声」を出せるようになる

 「ダイアログ・イン・サイレンス」では、「音声・言葉が使えない」という非日常の中で、まずは誰でも大きな危機に陥るはずです。普段の生活において「できる人」かどうかといった背景は消失します。ここでは、普段は「できない人」と思っていた人が「できる人」になるかもしれない一方で「できる人」と思われた人が、色々なことができない、もろくて不自由な人になる可能性もあります。親子で「ダイアログ・イン・サイレンス」を経験したら、自分を表現することに長けた小さな子どもに、普段は強くて大きなパパが助けられる場面もあるかもしれないのです。

 日本の社会は、個性を発揮することに関して、プレッシャーが強い社会ではないかと私は見ています。人々が均質化されるべくコントロールされた社会では、全体のことが優先で「個人」は後回しになってしまうことがある。でも、そこには葛藤があるはずです。自分らしく生きたいと思ったときに、周囲からの「こうあるべき」というプレッシャーとのギャップが大きくて、悩み苦しんでいるんじゃないかと思うんです。

 そんな葛藤を抱えている人にとって大切なのは、「ふり」をしないことです。「できないわけじゃないんだ」とか「できなくても別に気にしていないんだ」という「ふり」のことです。大切なのは、自分が直面している問題を見過ごさないで、自分はこれができない、分からないということに気付いて、それを正直にカミングアウトしていいんですよ。そこから、自分自身について本質的な部分に触れることができるのですから。