『さしすせその女たち』 今回の主な登場人物
マンションの鍵を開けた瞬間、ただいまあ、と、杏莉と颯太が部屋に突進していった。
「おう、おかえり」
ソファーに寝転んだ秀介が、子どもたちに声をかける。秀介の機嫌がよいのを察知したのか、杏莉と颯太が秀介に抱きつき、今日の出来事を話している。お寿司のイクラがおいしくて、カレーもおいしくて、希ちゃんと遊んでおもしろかったと、脈絡なく二人で交互に話す。子どもというのは敏感だ。今週はずっと秀介がムッとしていたので、子どもたちは秀介に近寄らなかった。
「ただいま」
多香実も声をかけた。
「おかえり。お疲れさん」
そう返した秀介の表情は明るかった。機嫌は直ったらしい。今日一日、一人でのんびり過ごして、息抜きできたのだろう。
「あー、風呂湧いてるから」
テレビに目をやりながら、秀介が言う。
「お風呂洗ってくれたんだ。すごーい、さすがね、パパ。どうもありがと」
多香実は感情に蓋をして、意を決して千恵のアドバイス「魔法の言葉さしすせそ」を参考にして言ってみた。秀介は、ほんの一瞬目を見開いたあと多香実を見て、おう、と照れたように言い、瞬時にうれしそうな表情になった。
「夕飯食べた?」
「ああ、適当に食べたよ。寿司うまかったか? いいなあ、パパも食べたかったなあ」
最後のほうは子どもたちを見ながら言ったが、それらは全部多香実に向けて放った言葉だった。
「すっごいおいしかったよ。回転寿司じゃないお寿司なんてひさしぶりだもの」
多香実が笑顔で返すと、
「よーし、今度はカウンターで寿司食うかあ」
と、秀介が調子のいいことを言った。なんだかとてもうれしそうだ。リビングに干しっぱなしになっている洗濯物を畳もうとすると、
「いいよ、おれがやっておくから、風呂入っちゃえよ」
と、秀介が立ち上がって、ピンチから洗濯物を外しはじめた。
「さすがあ、気が利くね。うれしいわ、どうもありがとう」
「任せとけって」
「すごいなあ、パパは。ねっ」
子どもたちに言うと、杏莉も颯太もうれしそうに、うん! とうなずいた。
湯船に浸かりながら多香実は、にやけてしまう顔に湯をかけた。なんて単純なんだろう、と思ったのだ。さしすせそ効果てきめんだ。
けれど実際、さしすせそを言葉にするには勇気がいった。なんで自分の方からおもねるようなことを言わなければならないのかと、くやしく思った。夫の機嫌をとるために、さしすせそを使う自分が、多香実はなんとなく嫌だった。