低学年の不登校は、保育園・幼稚園時代を引きずっていることが多い
小学校低学年の子どもたちが「学校に行きたくない」と言ったり、登校しぶりをするときは、ほぼ一定の割合で幼稚園や保育園時代を引きずっている子がいます。
幼稚園や保育園に通う年齢の子どもたちが園に行きたくないと思ったら、最初のうちは「嫌だ」「行きたくない」などはっきりと言葉に出して訴えます。
その訴えに対して、保育園に通う子の場合、親は仕事を休むわけにもいかないので、子どもが泣いても抵抗しても、行ってもらわなければ困る、行って欲しい、行きなさいと、かなり強制的に園まで連れて行くことになります。
幼稚園の場合も同じです。保育の現場は今、幼稚園・保育園の段階で不登園を認めると、小学生になって登校拒否・不登校になるという考えがあるので、先生たちは登園しぶりがあっても休ませないよう指導されています。そのため「たとえ子どもが泣いてもわめいても、とにかく連れてきてください」と言う先生方が圧倒的多数なのです。
そして、親のほうも子どもが泣いて行きたくないと言ったときに、「そうか、行きたくないんだね。幼いながらも事情があるんだろうね。聞かせてちょうだい」と言ってあげられることはほとんどありません。
言葉だけでなく、態度で示しても封じられてしまう
子どもたちは、園に行くのがつらい、朝なかなか起きてこない、朝ご飯を食べない、着替えをしない、制服を着せると脱ぐ、帽子をかぶせると投げ飛ばすなどして、行きたくない気持ちを態度で示しますが、大人たちによってそれもことごとく封じ込まれてしまいます。
すると子どもは、言葉や態度でいくら嫌だと訴えても、大人は誰も受信してくれないということを骨の髄まですり込まれ、子どもの辞書には「嫌だ」「行きたくない」の言葉がないことを悟ります。親と先生がなんとしてでも園に行かせようと連携するのですから、子どもは自分の無力さを思い知らされるわけですね。
「嫌だ」「行きたくない」「困ったことがある」と言えなくなり、行きたくない気持ちを自分の中に封じ込めて、大人の言うことに従うという身の処し方をすり込まれた子どもたちが小学校に入学すると、今度はそこに過酷な現実が待っています。
幼稚園・保育園時代には、子ども主体の遊びのある生活がある程度、尊重された集団生活がありました。ところが、小学生になると、それが一気に切り替わり、自分の椅子に座って45分間、先生の言うことにじっと耳を傾け、静かに学習に集中しなければなりません。
それは親世代が子どもの時もそうでした。しかし、文部科学省が脱ゆとり教育に舵を切って以降、学校生活の過酷さは増す一方で、子どもたちの身には親の目に見えにくいさまざまなしわ寄せが押し寄せています。
その過酷さとはいったいどんなことなのでしょうか。