夏休みは共働き家庭の大問題である。

 なんと、子どもが暇ではないか!

 仕事に行っている間、彼らをどうすればいい?

子ども達よ、ぜひぼうっとしたまえ

 そこで自然体験キャンプに送り出したり、塾の合宿に行かせたりしてなんとか子どもたちを忙しくする。私たち夫婦もそうやって毎年、お金を使い、綱渡りのように長期の休みを乗り切ったものだ。

 しかし、暇は財産である。

 私は息子たちが「ひまだ~」というと「それは素晴らしい。ぜひぼうっとしたまえ」と言って祝福している。だって45歳のいま、私が思い出す子どもの頃の記憶の多くは、ぼうっとしていた時のものだからだ。

 窓から差し込む光、化繊のベッドカバーの手触り、団地の砂場の匂い、赤道直下の朝の音。ほとんどの記憶は断片的だ。数え上げればきりがない。そんな幼い記憶の寄せ集めが、私の根っこを作っている。ワンシーンだけの風景の中に、言葉に尽くせぬ様々な感慨が(発見と言ってもいい)詰まっている。

 あの頃、時はそこらじゅうに溢れていた。石畳の溝を這う小さな毛虫の背中や、お気に入りのプラスチックのカップの絵柄にも、時は潤沢に用意されていたのだ。

 そんなものたちをじいっと見つめたり突っついたりしながら、私は自分の居場所を確かめていた。あの時の「ここに世界がある」という鮮やかな感覚は、いまも同じ強度で私を支えている。

 たとえ予算がなくて、高価なプログラミングのキャンプに行かせることができなくても、貴重な体験は家の中にも転がっている。その「貴重な体験」の最中にある子どもは、例えばリビングのソファに伸びているだけだったりするので、「まずい、だらけている! アホになる!」と親は焦ってしまう。しかしどうか奪うなかれ、彼らの時との交歓を。