世間の目にさらされ不安定さも やりたいこと探し続け

 著名人の父を突然、亡くしたということで、子どものころからずっと世間の目にさらされてきました。「日常でも仕事でも、私の父が坂本九という情報が入ると、悪気はないけれど父の話題になります。テレビやニュースで事故の映像も出ます。『落ちた』っていう言葉だけでも嫌なときがありました」。大島さんはそういう話を聞きたくないのに、「自分もあの飛行機に乗るはずだった」「事故のとき、どこにいたの?」と言われたそうです。

 「楽しいこともあって暮らしていましたが、今思えば不安定さはあったかもしれません。常に、生きるのが怖かった。事故が起きるんじゃないか、病気になるんじゃないかと心配で。普通の10代が考えないことを考えていました

 父の死をどう乗り越えたか、よく聞かれました。「区切りはない。終わりはないんです」。大人になっても、父との死別について話す機会はたくさんありました。インタビューは、つらい思いが噴き出すのを誘導するようなもの。「気持ちが揺れるし、辛いけれどやらなきゃしょうがないと、感覚を鈍らせてやってきた部分が多い。反面、そうやって話すことで自分と向き合える。必ずしもマイナスだけではありませんでした」

 一方で、自分の進む道を探し続けていました。18歳のとき、ミュージカルの舞台に出演。歌を作り、音楽活動を続けていましたが、何を伝えたいかがなかなか見えません。会社勤めや塾の先生も経験して、歌いながら模索しました。

 「本当に歌でいいのかな。何のため?」

 飛行機事故の現場には、ずっと行くことができませんでした。初めて、御巣鷹山に登ったのが、父の没後20年のとき。「一度は行かなければとの思いで登りましたが、私にとってはつらすぎるものでした」

産後すぐ、親子ライブを主催「やりたいこと見えた」

 そして大島さんの人生に、転機がやってきます。2009年、男の子を出産しました。出産をきっかけに、不思議と「やりたいことをやりたい」というパワーが湧いてきました。

 産後すぐ、動き始めます。赤ちゃん連れで行けるライブがないとわかり、自ら親子ライブを開きました。会場はハイハイできるフラットなスペースにしてマットを敷きます。自分の子に聴かせたくて始めた企画が、「ママたちも音楽に触れる機会があってよかった」と喜ばれました。

 「子どもって、教えていないのに踊り、音に反応する。本能なんだなと思って、子育てで音楽の力を感じました」。活動を広げたいと思い、「生きているうちにご一緒できればいいな」と憧れていたギタリスト・笹子重治さんにサポートをお願いしました。

 体力も時間もない産後。思いのエネルギーだけがありました。「笹子さんに、こういう曲をやってみたいと話すと、アレンジや演奏でサポートしてくれました。戦争に行った息子を待つ『岸壁の母』、美空ひばりの反戦歌『一本の鉛筆』などレパートリーができて。親が子を思う気持ちの大切さ、命の輝きを未来に伝えたいと見えてきました」