仕事で落ち込む母に「自分の仕事に誇りを持って!」と励ました中学時代

―― お母様は、セールスでもトップの成績を収められ、ビジネスパーソンとしても優秀だったんですね。

中村 そうですね、私が大学で東京に出てきてからも、毎年トップの成績で、東京での表彰式に呼ばれて上京していましたから。

 でも最初は大変だったみたい。やっぱり一軒一軒訪問してのセールスって厳しいじゃないですか。何かちょっとへこんでいたのかな、母を見て、「自分の仕事に誇りを持って。だって人を綺麗にする仕事なんだから!」って励ましたのを覚えています(笑)。

―― なんと大人びた中学生! お母様はさぞ元気づけられたことでしょう。ところで、お母様は子どもの教育や子育てについてはどんなふうにお考えだったんですか?

中村 特に何も……(笑)。母からは勉強しろとか、どんな進路につけとか全く何も言われたことはありません。とにかく放っておかれていました(笑)。母自身も、農家の8人きょうだいで小さいころから親に手厚く世話をしてもらったことはなかったと思います。だから、自分の子どもにも同じように接していた。でも、私もそのことに不満はなかったですね。子どものころはきょうだいや近所の子どもたちと一緒に遊んで、友達の家に行ったり、いとこの家に泊まったり、いつも周りはにぎやかで全然寂しくなかったし、楽しかったです。

六大学ラグビーに憧れて上京。猛反対する父に、母がフォローしてくれた

―― のびのびと育った子ども時代を経て、中村さんは早稲田大学に進学されています。

中村 高校のラグビー部が全国大会に出場するほどで、ラグビーが大好きになったんですね。それで六大学ラグビーに憧れて、生で見てみたい!と思って。最初は、六大学であればどこでもよかったんです(笑)。勉強自体は嫌いじゃなかったんですが、当時の私は、実力で早稲田大学に入れるほどの成績ではなかった。高校2年の冬休み明けに六大学を目指せないか、担任の先生に相談したら、一言「無理だ」って言われました。

―― 上京したかったのは、ラグビーのためだ、と(笑)。現役で早稲田大学の商学部に入っていますが、無理だと言われて奮起したのでしょうか。

中村 それが不思議なことが起きて、その年に初めて早稲田大学の学校推薦枠がうちの高校に来たんです。ラグビー部の主将が受けるだろうという噂が流れて、「あいつが行くなら仕方ない」とみんな諦めて応募しなかったのに、彼は受けなかったんですよ。結果、私一人だけしか応募していなかったの! 学校の成績はそこそこ良かったので、運良く進学できることになったんです。

―― 東京への進学について、ご両親の反応はどうでしたか?

中村 父は、もちろん反対です。全てに反対する人ですから(笑)。でも母は「芳子の好きなようにすればいい」と思っていて、「行きたいところに行かせてあげたら?」と父に言ってくれたんです。母からは、「その代わり、お父さんに頭を下げてお願いしなさい」と言われて。明日までに入学を決めなくては……という日に父もようやく許してくれました。

厳しい父 放任の母のもと、自分で考え行動する強さができた

―― お父様が、何でも反対をするというのはなぜだったのでしょう。

中村 父は父の価値観の中で、男はお金を運んでくるのが仕事で、女は家庭にいて平凡に生きるのが幸せだと思っていたんだと思います。裏を返せば、私の幸せを願ってくれたのだと……。ただ私は私で、親から放っておいて育てられたから、いつも自分で考えて行動する習慣がついていました。だから、自分で、正しいと思って選んだ道に対し、父が反対しても、もうそれを真に受けたり揺らいだりはしなくなっていったんですね。

―― 商学部を選んだのは、やはり自立への思いもあってのことでしょうか。

中村 はい。やはり父や母を見ていて、女性が経済的に自立することはすごく大事だって思ったんです。本当は英語や文学に興味があったけれど、それでは安定した就職先に結びつくとは、当時思えなかった。仕事につなげるなら、語学系ではなく、社会科学系だと。正直、まわりに大学に行く人もそんなにおらず詳しいことは分かっていなかったんです。商学部でなくても経済学部でも法学部でも何でも良くて、ただ「大学で学べば、きっと就職できる」と、思っていたんです。