働き者の母の哲学は「人生は大変な中に喜びを見いだすもの」だった

―― 夫に評価されない中でも、粛々と忙しく働き続けるお母様を中村さんはどのように見ていましたか?

厳しい存在だった父と、化粧品や高級下着のセールスに携わり、生涯現役を貫いた母
厳しい存在だった父と、化粧品や高級下着のセールスに携わり、生涯現役を貫いた母

中村 色々な仕事に挑戦して、ずっと働いている母のことはすごいなあと思って見ていました。農業は、きつい仕事というだけでなく、収穫があり過ぎると値段が下がるというケースもありますよね。母からしてみると、実家での農業の現実を見てきて、「こんなに毎日大変で、頑張っても必ずしも報われるとは限らない仕事は自分には難しい」「農業に比べると、他の仕事の苦労は取るに足らない」と感じていたようです。実際、母は裁縫やセールスの仕事を楽しんでいたように思います。

―― 仕事をしながら、家事も子育ても一手に引き受けてという状態は、今でいうワンオペ育児ですよね。様々な苦労もあっただろうと思います。

中村 それが、泣き言みたいなことは一切言わない人だったんです。大らかで、子どもにつらく当たることなんてないし、父のことも一切悪く言わなかった。当時、私たちは父がいると、緊張して食事が喉を通らなかったくらいだったんです。でも、「お父さんは、本当は優しい人なのよ」「本当はあなたたちのことが大好きなのよ」と言ってくれていましたね。

―― ワンオペしながら、夫のフォローまで……。そうすると、幼少期、子どもからすると理不尽な状態ではあっても、お父様に対しての印象は肯定的なものになったのでしょうか。

中村 いえ、残念ながら(笑)。「結婚はしない」「私は自立する」と固く心に決めていました。ただ、成長してからは、原爆の被害者で戦争のため高校に進学できず、苦労した父の人生が少しは理解できるようになったと思います。

 母は忍耐の人。がんで余命数カ月と言われ、ホスピスにいたときに初めて、「お父さんはちっとも家にいてくれなかった。子どもたちともっと一緒にいてほしかったのに。つらかった」って本心を聞きました。達観している人だと思っていたのだけど、本当はそうした一面もあったんだなって初めて気づきました。きっと母は人生は大変なのが当たり前、という哲学を持っていたんじゃないかなと思うんです。大変だけれど、その中に楽しみや喜びを見つけていこうとしていた。母を亡くした前後にそう考えるようになりました。