父親は今思えばイクメンだったのかも
── 10年前に育休を取得して、期間中は専業主夫になり、現在は翻訳業などを生業とする兼業主夫として生活している堀込さんの父親像というのは、まさに自分で作り上げてきたオリジナルのものだと思いますが、もともとご自身のなかにあった父親像はどんなものだったのでしょうか?
堀込泰三さん(以下、敬称略) あまり考えたことはなかったですね。子どもが生まれたらどうするのかっていうことは、想像していませんでした。自分の父親はどうだったのかと言いますと、普通のサラリーマンなんですけれど、定時に必ず帰ってきて、夕飯は必ず家族そろって食べていました。子どもと一緒にご飯を食べて、一緒に風呂に入る。その後、たまにマージャンに出かけるといった感じでした。
家族そろって楽しくご飯を食べるというのが日常の風景で、父親だけ飲んで遅く帰ってくるといったことはほとんどありませんでした。週末になると、どこかに行こうということで、旅行にもたくさん連れていってもらいました。父親は家事などはしていませんでしたが、思い返してみれば、今で言うイクメンだったのかなと思います。
そういう意味では、父親が僕にしてくれたように積極的に子どもの面倒を見るというのが、当たり前でしたし、何も疑問に思ったこともないですよね。だから、長男が生まれるとなったときには、既に選択肢が今やっていることしかなかったという感じです。
背中を押してくれたのは両親だった
── 長男が生まれたときに育休を取得して、その後、会社を辞めて主夫になろうと決めたときの周囲の反応はどんな感じでしたか?
堀込 周りの友達や会社の同僚たちはみんな、「泰三らしいよね」って言っていました。長男が生まれる前から、どうやら僕はそういう人だったみたいです。会社を辞めて主夫になるという選択肢を取るだろうね、みたいな。ちゃんと聞いたことはないので分からないのですが、なんだか、僕ってそういう人みたいです(笑)。
それで、いったん、妻と長男を米国に残して帰国して復職した後、寂しい思いをしていることを相談したら、両親は「妻と子どもを米国に残して辛い思いをするくらいなら、早く会社を辞めて家族で一緒に暮らしなさい」と言ってくれました。「仕事なんかどうにでもなるんだから、家族と居ることを選びなさい」と。家族を大事にしてきた両親だからこそだと思います。
そういう意味では、僕と僕の両親には迷いはなかったのですが、妻のほうは葛藤があったようですね。僕の両親に「東大まで行かせたのに、ウチの息子に会社を辞めさせた」などとがっかりさせてしまうのではないかと心配していたようです。でも、フタを開けてみれば、反対するどころか、逆に背中を押してくれたということで安心したようです。
そのころにはある程度、翻訳の仕事で収入を得るメドがたっていました。それで2年間くらい翻訳の仕事で食いつないで、帰国したら新たに仕事を探せばいいだろうというイメージでした。結局は、帰国してすぐに次男が生まれたので、イメージ通りにいかず、翻訳の仕事を続けていますが(笑)。
── 米国での主夫生活はどうでしたか?
堀込 カリフォルニアでしたが、そこら中に青い芝生があって、子育てするにはとてもいい環境でした。東京で言えば、新宿御苑クラスの立派な公園がたくさんあったので、子どもと一緒に走り回って遊んでいました。そういう意味では長男は本当にのびのびと育っていました。僕も一緒になって遊んでいたので、毎日、とても楽しかった。
よく、「カリフォルニアの青い空」って言いますけど、本当にそんな感じで向こうでの生活は最高でしたね。妻の米国赴任がさらに延長になってこの生活を続けてもいいな、と思っていたほどです。