5歳になるひとり息子を、芥川賞作家夫婦で育てながら超多忙な日々を送る川上未映子さん。仕事、お金、子育て、美容。健康、暮らし、人間関係。しあわせやよろこびだけでなく、おそろしいこと不安なこと、そして思わず、びん詰めならぬゴン詰めたくなる世間のあれこれを綴ります。人気コラム『川上未映子のびんづめ日記』シーズン2、ついに最終回。最後のテーマは、「100年人生」です。

 人生は一度きり、なんてことはわかっているけれど、しかし、それが本当に意味するところはいつまで経ってもわからないままだ。人生は再演なしの、初演のみ。そりゃあ日々、細かいことで反省したり教訓めいたことも考えるけれど、その対象を「人生」に照らしてみた場合、手も足もでないよね。今日もフレシネを飲みながら、そんなことを考えた。

わたしは生にものすごい執着があるとおもう

 子どもの頃から、これが本当に不思議でしょうがなかった。単純にして複雑の極み、なぜ、人は死んでしまうのか。今でもふっと気配がしてふりむくと、その感触が部屋の隅からじーっとこっちを見つめている、なんてことはしょっちゅうなんである。

 自分に子どもができてからは、その「不思議だなあ」に「考えたくない、耐えられない」みたいな心情がくっついて、真夜中ベッドで息子の背中を撫でていると「ああ、いつか必ず、この子と会えなくなるときがくるんだな。努力とか思いとかそんなことおかまいなしに、必ずそのときは、何があっても、わたしたちを捉えるんだな」という当然の事実につきあたって、追いつめられ、暗闇の中であまりの恐怖に身動きがとれなくなることがある。まあ、朝がきて活動が始まるといいあんばいに中和されはするんだけれど、でもあの感触に心当たりのあるかた、わりに多いのではないだろうか。

 ぜったいに避けることのできない「終わり」を生のうちに抱えているわたしたちにできることはといえば、「できるだけ健康で長生きをする」という、書いていて素直すぎてだいじょうぶかと不安になるくらい普通の感じなんだけれど、でも、それくらいしかないんである。交通事故には気をつけようとか。ときどき「いつ死んでもかまわない」と真剣に思っていそうな人もいるんだけれど(夢想とかなんちゃってじゃなくて本気の人)、わたしは「死」が不思議だとは思っていたし、なかなかタフな子ども時代を送りはしたけれどしかし真剣に死にたいと思ったことはおそらくなく、どっちかというと生にものすごい執着があるほうなんだと思う。

 それがはっきりしたのは、やっぱり仕事に出会ったからかもしれない。