私は料理を作らなくなりました

 私はもう何年も、料理を作っていない。理由は平たく言うと、自分が毎日時間と手間を費やして、生ごみを作っていることに耐えられなくなったから。わが家の息子たちは驚異的に燃費がよく、少食である。いま中3の長男はだいぶ食べるようになったが、それでもいわゆる「男子がいるからエンゲル係数が高くて大変!」って状態には程遠い。しかしすくすくと育ち、足のサイズは27センチ、身長も私(172センチ)を抜いた。小6の次男は相変わらずの「文鳥か?」ってぐらいの少食だが、サッカーやらかけっこやらで汗だくで動き回っており、育ち盛りで服がどんどん小さくなる。

 つまり今となっては、子どもにはそれぞれ体質があり、もりもり食べないからといって心配せんでも育つとわかったのだ。けど何しろ子どもが幼児の時には「これでは栄養失調になるのでは?」「大きくなれないのでは?」と思いつめた。食事のたびに息子たちを叱咤し、食卓は毎度修羅場になった。あ、ちなみに私の作るご飯はまずくない。わりとおいしい方だと自負している。しかし、何しろ息子たちはそもそも食べることに興味がないのだ。

 でもって私は、食べ物を捨てることに非常に強い罪悪感を覚えてしまう。モッタイナイと脳内マータイさんが責め立てる。だってブロッコリーの種を撒いて育てて収穫して選別して出荷して、それが店頭に並んで私に料理されて子どもの前に並ぶまでに、いったいどれだけのエネルギーと手間が消費されたと思う? それがまたゴミとして収集されて燃やされるのにも、またエナジーが。このなんら生産的な昇華をすることなく種から灰となるエネルギーの流れの無駄さ加減たるや。いや、それで誰かが収入を得たりするわけだから全くの無駄ではないのだが、しかしだな、せっかくいろんなエネルギーを使ったなら、それが誰かの生きるエネルギーに変換されてこそ意味があると考えるのは自然だろう。

 それに、やり甲斐というやつもある。必死の思いで帰宅して作った料理が一時的に皿に乗って子どもの前に並べられたのちに大半が生ごみとして廃棄されるのは耐え難かった。賽の河原に積む小石的な虚しさを日々覚えるわけだ。