18歳がピークだった

――渡米したときは、どんな心境だったのですか?

マック すべて自分で招いたことなので、ある意味吹っ切れていましたね。とにかくここで何かやるしかないという気持ちでした。練習生といっても、実質は雑用や洗濯係といったところ。英語は全くしゃべれなかったのですが、仕事上は特に問題なかったですね。

 1年目の月給は300ドルほど。当然生活はカツカツで、食事はホットドッグかマクドナルドの99セントメニューばかり。宿舎も一応ありましたが、毎日何十着もユニフォームを洗濯するなど忙しかったので、クラブハウスで寝泊まりする日々でした。

 ただそのチームは弱くて、僕からみても「下手くそやな」と思う選手ばかりでした。その年のシーズン最終戦、17歳で初登板。1イニングを三者凡退で抑えました。それがきっかけで翌年、別の球団で本格的に選手としてプレーすることになりました。

 その頃は、自分の力がぐんぐん伸びるのが実感できて、目をつぶっても自分のイメージ通りのボールが投げられる、野球が楽しくて仕方ない時期でした。18歳で結果を残し、翌年シアトル・マリナーズとマイナー契約を結ぶことになったのですが、シーズン前のキャンプで肩を故障。これが致命傷となり、それから何度か手術しましたが、結局完治はしませんでした。

 その後はずっとだましだましの投球で、ボールの勢いが戻ってくることは、現役を引退するまで一度もありませんでした。18歳が僕のピークだったんです。

――しかし、その後数年かけてマックさんはメジャーリーグに昇格し、投手として高い評価を受けました。そのときでも、肩は万全ではなかったのですか?

マック 肩の調子はいいときと悪いときの波があって、いいときは30%ぐらいの力は出るんです。そういうときは抑えられることが多いですが、とにかく安定しなかったですね。メジャーリーグでは、安定した力を発揮できないと、長期契約は結んでもらえないので苦しかったです。

 ただ、アメリカ生活も5年目くらいになると、英語力もかなり習得していたので、生活面でのストレスはほとんどなくなっていました。英語が話せなかったら精神的にもっとしんどかったと思いますね。

――英語についてはどのように勉強されたのですか?

マック 勉強らしい勉強はしてません。ただインタビューなどに答える必要があったので、自分と同じくらいの結果を残した選手のインタビューなんかを参考にしていました。これくらいのパフォーマンスをしたときはこういう言い回しが使えるんだな、と真似から入るんです。そういうフレーズを少しずつ覚えていくと、そのうち自分なりのアレンジもできるようになっていきました

 あとは、生活すべてが英語ですからね。否応なしに覚えますよ。結局、一番の勉強法は「英語しか聴かない、話さない」ということだと思います。

今年開校した「英語野球教室」でのレッスン風景
今年開校した「英語野球教室」でのレッスン風景