保育園時代は、「2つの家」を行き来する生活をしていた

―― 粟生さんが保育園時代に、「2つの家生活」を送っていたのはどういった経緯からなのですか?

粟生 私が3歳のときに、母の職場に近い保育園に転園したんです。母は事務職についていて、残業はそれほどなかったけれど帰りは18時ごろになる。それで、一足先に園の近くに住むお友達の家に一緒に帰らせてもらって、そこでおやつをいただいたりしていました。

―― お母様は、ずっと仕事をしていたんですか?

粟生 いえいえ、元々は専業主婦だったんです。でも、私が3歳のときに父が脱サラして祖父の事業を継ぐことになって。「専業主婦になりたいからサラリーマンと結婚したのに、パパが会社をやめちゃって大変!」って言っていたのを覚えています(笑)。それで自分も働きに行かないと、と親戚の人に紹介してもらって、自分の仕事や私の保育園を見つけてきたようです。

夜道をおんぶしてもらった母の背中が、甘い思い出

―― 幼い粟生さん自身にも、環境の変化があって大変だったと思います。

粟生 そうですね、引っ越しもあったので、生活環境が急に変わったなという記憶はあります。でも取り立ててそれが嫌だったというわけじゃなかったんです。お友達の家に行くのも楽しかったし、母が迎えに来てくれて一緒に帰るのも楽しかったんですよね。

―― 二人で夜道を帰りながら、お話をしたり?

粟生 ええ、たくさんしました。自宅は少し離れた駅にあったので、電車に乗って帰るんです。ほんの10分くらいですけど近鉄電車に乗っていると、知らないおじさんとかおばさんとかが、話しかけてくれるんですよ。夜に電車に乗る子どもが珍しいからアメちゃんとかくれて(笑)。それに、駅までの道で母にもジュース買ってっておねだりしたり、おんぶをしてもらって甘えたりするのも、すごくうれしくて。でも、ついこの間、母に「あのころ、毎日万琴におんぶしてって言われて、しんどかったけど、普段預けているのだし、しょうがないなっておんぶしてたのよ」と言われました(笑)。

保育園とお友達の家で過ごした保育園時代。フルタイムで働いていた母との電車での帰宅時間は、たっぷり甘えられた母子のよき思い出に
保育園とお友達の家で過ごした保育園時代。フルタイムで働いていた母との電車での帰宅時間は、たっぷり甘えられた母子のよき思い出に

―― 普段一緒にいられない時間の埋め合わせに…という親心もあったのかもしれませんね。多くの働く親が一度は経験のある気持ちです。

粟生 母は私のために、保育園の後で過ごすお友達のご家庭と良い関係を築いてくれていたり、日ごろから私の気持ちを尊重しながら見守ってくれたりしていました。母は私を本当にかわいがってくれたと思います。だから寂しくなかった。働いて稼いだお金で、たくさん洋服を買ってくれたり、家の食卓でいつも社内のゴシップを話してくれたりして面白かったです(笑)。母が働いていたことで嫌な思いをした記憶は、全くないですね。