ロシアが自由でなかった時代から、バレエ留学を繰り返し、実力を付けた斎藤友佳理さん。ロシアのバレエダンサーと結婚して出産、復帰するも舞台の本番中に大けがをし、そこから復活したという激動の人生です。ダンサーから指導者への転身を考える中、ロシアの大学院に通い、世界で通用する教師の資格を取得。現在は東京バレエ団の芸術監督として活躍する斎藤さん。今回は、大学院に通い指導者になった経験と、息子さんとの関係を紹介します。

 <上編記事> 斎藤友佳理 ダンサーの子育てとキャリアチェンジ

「バレエ教師の資格を」と38歳でロシアの大学院に

―― 38歳のとき、ロシアの大学院に入るというチャレンジをしました。

 「私はずっと恵まれた環境で、感謝しています。東京バレエ団に、創立者の佐々木忠次団長に迎えられ、ニコライ・フョードロフと結婚したときも『日本とロシアの架け橋になってくれたらいい』と言われました。バレエ団に入る前から、短期留学でボリショイ劇場の素晴らしい先生から指導を受けていました。結婚して行き来をやめないといけないかと思いましたが、ロシアで勉強したことを日本で生かし、自由に行き来できるようにしてもらえました」

 「年齢とともに舞台も減り、踊るチャンスがだんだん少なくなりました。バレエダンサーはみんなそうなっていきます。半年以上、舞台がない時期も。1年に1回となったとき、佐々木団長に相談しました。『自分はバレエの学校を出てないから、世界で通用する教師の資格を持ちたい。ロシアの大学院に行くと5年かかる。バレエ団を続けられなくなるかもしれない』と話すと、佐々木団長に『来年、再来年と待たずに、今から始めなさい』と背中を押されました。団長から『踊れるものがあれば舞台に出ればいい、団を辞める必要はない』と応援されて、とても幸運でした

―― 息子さんがロシア語を教えてくれましたね。

 「国立モスクワ舞踊大学院で、ダンサーが仕事をしながらでも入れるような仕組みが始まったので、試験を受けて入学できました。でも、卒業するのが大変なんです。夫が家事や育児を助けてくれて、息子と一緒に勉強しました。夫は『2人子どもがいる、大きいほうに手がかかる』と言っていましたよ。劇場史や神話という科目があって、日本ではやったことがない。向こうでは常識ですが、あまりに知らなくて、『バレエ以前の問題じゃない?』と先生に叱られました。息子がロシアの小学校で勉強していたので、すべて教えてくれました。バレエ作品のプーシキンの韻文も教えてもらって。ロシアの教育方法は暗記させるということに関してはすごいと思います。幼稚園のときから息子は難しい文を暗記していました

 「何度もやめようと思いました。最初にやめようと思ったのは、2年生のとき。ロシア語の検定に受からないと、その先、単位をとっても無効だったと知り、やるしかないとばかみたいに勉強しました。合格したのですが、この勉強をしたら、それまでスムーズに出てきていたロシア語が話せなくなってしまいました」

斎藤友佳理(さいとう・ゆかり) 1967年、横浜生まれ。6歳から母のもとでバレエを始め、ロシアへの短期留学を繰り返す。1987年、東京バレエ団に入団。2009年、ロシア国立舞踊大学院バレエマスターおよび教師科を首席で卒業。「ラ・シルフィード」「オネーギン」などレパートリーは広く、表現力が国内外で評価されている。2015年、同団の芸術監督に。著書「ユカリューシャ」に国際結婚や子育てについても記す。団の公演は6~7月に「ラ・バヤデール」がある。http://www.nbs.or.jp/