ロシアが自由でなかった時代から、バレエ留学を繰り返し、実力を付けた斎藤友佳理さん。ロシアのバレエダンサーと結婚して出産、復帰するも舞台の本番中に靱帯断裂の大けがをし、そこから復活したという激動の人生です。さらにダンサーから指導者への転身を考える中、ロシアの大学院に通い、世界で通用する教師の資格を取得。現在は東京バレエ団の芸術監督として活躍する斎藤さんに、子育てとキャリアについて聞きました。

クラシックが大好きで、家の中で踊り出していた子ども時代

―― 幼いころから、感性豊かに育ったのですね。

 「子どものころはクラシック音楽が大好きで、家の中で踊り出していました。家族は見守ってくれて、感性と想像力を伸ばすことができたと思います。母からバレエを習い始めたのは6歳のとき。母はバレエ教師で、私を教えるため教室を始めました。成長するにつれ、母との葛藤があったときは、父や兄と話すと和らぎました。バレエ中心の生活で、学校で孤立したときも、家族に支えられて学業もやり遂げました」

 「小学校5年生のとき、初めてロシアへのバレエ研修ツアーに参加して、そのときにプロのダンサーになりたいという目標が確かになりました。16歳から短期留学を繰り返しました。ビザの関係で2週間以上は滞在できず、15回ぐらい行き来したでしょうか。のちに夫となるニコライ・フョードロフ(ボリショイ・バレエ団プリンシパル)と出会ってペアを組みました。東京バレエ団に入って2年目の20歳のとき、彼に結婚を申し込まれました。まだ社会主義だったロシアは、自由にならないことが多かった時代です。ダンサーは亡命を疑われて監視され、結婚しないと会うのも難しかった。わが家でのお試し同居を経て結婚し、ロシアと日本を行き来しながら結婚生活を送りました」

―― 一線のバレエダンサーが出産を考えるのは、大変かと思います。

 「日本においては、バレエダンサーが子どもを持って一線に戻る例が少ない時代でした。これは考え方、人生の捉え方なんですけど、私の場合は、まず女性として普通の人間でありたい、普通でなければと願っていました。何か一つ、大きな決断をするときは覚悟が必要です。あっちも満たされるように、こっちも満たされたい、というのは無理だと思う。妊娠・出産のため一線から離れている間に、次々と優秀な新しいダンサーが出てきます。戻ってきたら、自分の役がないかもしれないと覚悟はしました」

 「自分の代わりに優秀な人が出てくるけれど、信念を曲げないことが大事です。そこがはっきりしていれば、たとえどうなっても悔いはありません。自分でセレクトする人生のターニングポイントは必ずある。今このとき、どちらを選ぶか。左を選んで、その先にまた3つ…どこを選ぶかの繰り返しだと思うんですよ。それで、一人の人生が出来上がっていく。瞬間、『どっち?』と思っても、信念さえ曲げなければ必ず答えは出てくる。悩んだときは直感を大事にします」

斎藤友佳理(さいとう・ゆかり) 1967年、横浜生まれ。6歳から母のもとでバレエを始め、ロシアへの短期留学を繰り返す。1987年、東京バレエ団に入団。2009年、ロシア国立舞踊大学院バレエマスターおよび教師科を首席で卒業。「ラ・シルフィード」「オネーギン」などレパートリーは広く、表現力が国内外で評価されている。2015年、同団の芸術監督に。著書「ユカリューシャ」に国際結婚や子育てについても記す。団の公演は6~7月に「ラ・バヤデール」がある。http://www.nbs.or.jp/