4歳になるひとり息子を、芥川賞作家夫婦で育てながら超多忙な日々を送る川上未映子さん。仕事、お金、子育て、美容。健康、暮らし、人間関係。しあわせやよろこびだけでなく、おそろしいこと不安なこと、そして思わず、びん詰めならぬゴン詰めたくなる世間のあれこれを綴ります。人気コラム『川上未映子のびんづめ日記』シーズン2、全16回でお届けする第12回目のテーマは、「母の日」です。

 母の日にとりわけ母について考えるということもないけれど、自分にとって母といえば、もちろん自分の親のことだった。けれど、そういえばわたしも子どもを産んで数年が過ぎていて、そうか、わたしも誰かにとっての母なのだなあ、とフレシネを飲んでそんなことを考えた。

子どもの健気さ、いじらしさを切ないほど感じる

 子育てをしていて大変なことは山ほどあるけれど、同じくらい、喜び&幸せとしか言いようのない時間や出来事も、数え切れないほどにある。同時に、なんだか切なくなってしまうような瞬間もあって、それはやはり、子どもの健気さというか、まだ小さいその世界における親の存在の大きさを感じるときだ。

 もう少し時間が経てば、家や親など見向きもせずにどんどん遠くへ行ってしまい、またそうであるべきなのだけれど、まだ4歳の息子はとにかくわたしのことが大好きで、何かあると「見て見て」を連発し、まだ抱っこを求めてくれる。母親というか、わたしの存在が大きいみたいだ。わたしも小さな頃は母親をこんな風に求めていたのだとは思うけれど、こんな形で、こんなに強く、誰かから求められたことはもちろんこれが初めてで、このことにいつも少しだけ驚いているのである。

 だって、わたしは確かにこの子を産んで愛情を持って育ててはいるけれど、だからといってそれが子どもの気持ちとイコールなわけでもないのだし、わたし個人の努力や資質のおかげで子どもからこんなに求められているというよりは、やはり母と子、親と子という関係に寄るところが大きいはずだ。そう思うと、子どもという存在は──もちろんある程度の年齢までは、ということだけれど、存在自体が本当にいじらしいものだと思う。

 先日、一緒にお風呂に入っていたら「かあか、背中をあらってあげる」なんていうので驚いた。