「お墓」じゃなくて、生きているうちにやる

 パート友だちも、バリキャリも、専業主婦も──彼女たちの一部が思うという、「せめてお墓は別にしたい」という気持ち。

 彼女たちがこう考える理由には様々あるだろう。それぞれのニュアンスもあるだろう。しかし、なんであれ、「将来の希望」がこれでは、あまりにあんまりではないだろうか。

 わかるよ、所詮、理想と現実は違うものだし、みんな少なからず我慢している、それが人生。わかります。でもさあ……このような望みを持って日々をがんばるしかない状況に女性が置かれていることに、なんともやれん気持ちになるのである(もちろん男性もいるでしょう)。死んでからお墓を別にしたってそんなの、自分の人生に何のかかわりもないのだもの。生きているうちにできることがあるはずで、それがすごく難しくても面倒でも、やるだけの価値はあると思う。

自分自身への信頼とお金を手放さないで

 夫は、他人である。これはネガティブな意味で言うのでもなんでもなくて、端的な事実である。妻も、夫にとっては他人である。他人同士が偶然の導くところによって時間をともにし、さらなる偶然の導くところによって子どもを授かった。そうである以上、またべつの偶然の導くところによって別々の道をゆくことになるかもしれないなんていうのは当たり前のことで、先のことは誰にもわからない。いつ、自分がどんな気持ちになるかなんて、わからないのだ。

 「せめてお墓はべつにしたい」と思う相手と、生きているうちに別れて自分の人生を生きようと思ったときに必要なのは、自分自身への信頼とお金である。そのためにも、やっぱり仕事は続けなければいけないし、そう思わないためにも、家庭内でのフェアネスは実践されるべきである。