常に食べるものの心配をしていた

島田 働いていたとは思うのですが、実際にどういう仕事だったのか、いまだによく分かっていません。一応、漁師ではあるのですが、シラス漁か何かで時期によっては全く取れず、そもそもの漁獲量も減っていて、職業としては成り立っていなかったのだと思います。その他、細かい仕事はやっていたのかもしれませんが、家にちゃんとしたお金を入れてはいなかったようです。父親が家にいるとかえって食費がかかるので、家計にはマイナスの状況だったようだと記憶しています。母のほうは保育士の免許を持っていて、母子家庭になってからは保育の仕事をメーンでやっていたようです。それ以前はコンビニのパート、保険営業などの職を1~2年ずつ転々としたり、掛け持ちしたりして家計を支えていました。

駒崎 中学入学のころからひとり親家庭になり、生活保護を受けるようになったと。振り返ってみてどういう生活環境でしたか?

島田 小学生のころから「お金がない」ということは僕にとって当たり前のことで、地域には同じような境遇の子もいたので、自分だけが珍しい境遇だという認識はあまりありませんでした。例えば、ゲーム機を買ってもらえないから友達がゲームをやっているのを見るだけで我慢する子というのは、僕以外にも何人もいました。でも、今振り返ると、常に食べるものの心配はしていましたね。高校に通っていたころは家計の回し方を少しでも間違えると、月末に食費が尽きてしまってスーパーの試食コーナーで食事を済ませる日もありました。学校生活の中で諦めなければいけないことはいくつかありました。

駒崎 例えばどんなことを?

島田 部活です。ずっと剣道をやってみたいと思っていましたが、武具をそろえるお金がないことは母に聞かなくても分かりましたので、入部を諦めました。中高通じて6年間、帰宅部でした。2歳下の妹は、比較的お金がかからない陸上部を選びました。当時は「そうするしかない」という気持ちでしたが、経済的な理由で部活動を自由に選べなかったというのは、一般的な中高生活とは少し違うのかもしれません。

駒崎 ちなみに、おじいちゃん、おばあちゃんからのサポートは受けられる状況ではなかったんですか?

島田 両親の祖父母4人のうち3人は早く他界していまして、健在だった父方の祖母も年金暮らしで頼れない状況でした。親戚付き合いもありませんでした。

駒崎 そうでしたか。中高時代、生活保護を受けていることに対して何か言われたり、不利益を被ったりすることはなかったですか?