生きるって色々なことではあるけれど、その中心にはいつだって食べることがありますね。親になって初めて知る、人の食を預かることのしんどさと、途切れることのない緊張よ……今日もフレシネを飲んで考えた。
ああ。つらい。ああ、しんどい。のっけからこんな調子で申し訳ないんだけれど、わたしはほとんど毎日こう思わずにはいられない。それは調理に関すること。これがめちゃくちゃ苦手なうえにどうしたって好きになれない、しかし生きていくためには必須の家事であるからだった。
「お母さんの手料理信仰」が、わたしをずっと監視する
「わかるわ。朝昼晩、朝昼晩と、まるで体に刺さった五寸釘よね」。この呪いを見事に表現してくれたのは詩人の伊藤比呂美さんで、そう、頭・胸・腹に突き刺さる、調理を預かる者にとってのこれは呪いなんである。
調理が好きな人、苦にならない人もいるだろうとは思うけれど、しかし親に課せられた調理とは「気が向いたときに、好きなだけ」というものとは根本的に違うもの。子どもの健康はもちろん、人格形成とか将来に関わる重大な案件として、世間は常にプレッシャーをかけてくる。妊娠すれば食べるものについて指南され、産んでからは巷にはびこる母乳信仰、ほうれん草の繊維はダメに始まる、どんだけ時間かかるねんと突っ込む気力も奪われる離乳食……。
「そんなん余裕の全スルーでいいやろ」と何の疑いもなく思っていた、心の底から怠惰なわたしだけれども、悲しいかな、そういうわけにはいかなかった(詳細は、拙著『きみは赤ちゃん』をお読みいただけると幸いです)。
そして現在。調理すなわち、「子どもの健康=命を守るもの」という、先に書いた特大にして最強のプレッシャーの他に、わたしを、そして多くの母親を付かず離れず監視しているのは、やはり「母親の味」「家庭の味」なるものではないだろうか。つまり、「お母さんの手料理信仰」がやっぱりどうにも存在していて、これっていったいなんなんだろうと、自分でも本当に不思議なのだ。