朝から晩までの共働きで調理が死ぬほど嫌いなわたしの女友だちは、同じく調理ができない夫と、そのことでいつも喧嘩ばかりだった。外食に頼るのにも限界があるし、話し合いの末、夜ご飯のすべてを某チェーンレストランの宅配サービスに切り替えることに。メニューも豊富、栄養素もカロリーもすこぶるOK、食事として何の問題もありはしないどころか理想的ですらある。

 結果、喧嘩も減って家庭崩壊の危機を脱することもできてよかったじゃん、という話であると思うのだけれど、これを別の女友だちに話すと、「え……それは、ちょっと」みたいな若干というか、けっこう引き気味の反応が返ってくるんである。つまり、「たまになら良いけど、そういう、心のこもっていない誰が作ったのかわからない食事で育つのって、子どもがかわいそう」と言うんである。

 わたしはそこまでは思わなかったけれど、しかし「お、思い切ったな」と感心しながら少々びびってしまったのは確かであって、自分にそれができるかと問うてみれば──こんなにも調理が苦手で死ぬまで包丁を握らないで済むならこれ以上の幸せはないと常々思っているはずなのに、なぜか、なぜなのか、そうはできない自分がいて、これにもまたびっくりなのだった。

 この抵抗感はいったいどこからくるんだろう。

「母が焼いた卵焼き」に、そんな効力があるなんて…

 これがいわゆる「母の味」の呪いなんだろうか。だとしたら「母の味」って、なんなんやろ。自分が子どもだった時のことを思い返すと、朝から晩まで働きづめの母親だったけれど、確かにそれに相当するものは二、三、あった。そして、たしかに懐かしくて良い思い出に分類されるような感覚を多少は残してくれてはいると思う。でも、具体的に言えば卵焼きとウインナーくらいのもので、ごくたまに作ってくれたからこそ、わりに特別でありがたい記憶として残っているような実感もある。

 そんなふうに母親がたまに作ってくれた卵焼きとウインナーが、現在わたしが感じている「母の味の呪い」の根拠なのだろうか。だとしたらすごくないですか、だってただ「母親が焼いた」というだけの卵焼きとウインナーにそんな効力があるなんて、それってかなり恐ろしい&すごいことだと思うんだけど……。