取り壊し再建すると10億円? 廃業の覚悟にお客さんが喝

 一方、壊れた建物をどうするかも切実でした。2010年の12月に改修工事が終わったばかり。震災後、話し合いの中で聞いた大工の意見は「江戸館をすべて取り壊せば、きれいに再建できる。でも10億円かかる」。建築家の提案は「江戸館の3階部分だけ、取り壊す」というもの。女将さんは衝撃を受けました。10億円という想像もつかない金額。3階部分だけとしても、「先祖が買い受けた歴史ある建物を、取り壊すなんてとんでもない」と。

 「震災で気持ちはしぼんでいるし、今まで頑張ってきたんだから、もうここで営業はやめようと思いました」と女将さん。そんなとき、常連の女性から連絡が。震災後に何回か宿泊したいと電話があり、危険もあって断っていたのですが、「何回も電話しているのに、常連を泊めないとは」と本気で怒られました。「そうやって真剣に叱られて、我に返りました。親や先代は、戦争や景気の悪い苦しい時代が多かった。6代目の私がやめてしまったら、『先祖がどんな思いで守ってきたのか。浜通り(福島の海側)の人たちはもっと大変なんだ』とあの世で叱られる」。もう一回、頑張ろうと腹をくくったら、体力や気力が戻るようでした。

 その後、行政の担当者や大工・建築家との話し合いで、女将さんは「建物の周りがきれいに残っているのに、壊せとはどういうこと?」「直すのがあなたたちの仕事でしょう」ときっぱり。なかむらやが生き残れるかどうかの瀬戸際、その言葉には迫力がありました。「あのとき女将さんの目が怖かった」「女将さんの言葉にズキッときた」と語り草になっているそうです。熱意に押され、元の形を残して生き返らせる工事が決まりました。

 復旧工事には「マンションが買えるぐらい」の費用がかかりましたが、国から地域への補助金が割り振られることに。足りない費用は地元の金融機関から借り、生活面は入っていた地震保険に助けられました。なかむらや創業以来、初めての休業でしたが、女将さんは館内を片付けたり、蔵の荷物を移したり、嘆いている暇はありません。

 女将さんの孫は11人います。原発事故が起きて、子どもたちの様子に心を痛めていました。「放射能の影響で、夏の暑い日もマスクに長袖で登校。学校でも窓を閉め切り、校庭に出られない。各家庭から壊れそうな扇風機まで集めて持って行きました。外で遊べないし、部活動ができなくて我慢の夏でした」

 大工が仮設住宅づくりで忙しく、工事に入れたのは震災から半年が過ぎた10月。折れた梁を補強したほか、天井をはがし、畳を取り除き、家の土台をむき出しの状態にして補強の新しい柱を立てました。建築家のアイデアと大工の技術で、補強だけでなく、古かったところを直し、歴史は残してきれいに生まれ変わりました。

 2012年の2月、工事が終わりました。気にかけてくれていたお客さんが、泊まりに来るようになりました。常連さんも戻ってきました。震災からわずか1年で、「取り壊すしかない」と言われた宿が復活したのです。「うれしかったというよりは、使命感のほうが大きかった。私はなかむらやを守るために、生まれてきたんだなあと。『置かれた場所で咲きなさい』というベストセラーがありましたが、背伸びしないで、他人をまねしたり憧れたりせず、一生懸命生きていこうと思いました

 次回は、なかむらやの復旧に尽くした大工・建築家のお話と、女将さんの今を紹介します。