38歳/第2子育休復帰後まもなく、21人のチームリーダーになった


―― 坂東さんが初めてリーダーになったときは何歳で、どういった経験をされたのでしょうか?

坂東 38歳のとき。日本学術会議事務局情報国際課長という肩書で、21人のチームでしたね。課長補佐は、叩き上げの気のいい年上のおじさまだった(笑)。補佐、係長などキャリアの人は3、4人。あとはノンキャリの人という環境でした。

―― 「38歳」というのは、今のDUAL読者の平均年齢ど真ん中です。やはり最初は苦労されたのでしょうか。

坂東 当時、周りの男性からも女性からもまだ“まりちゃん”と呼ばれていたので、「まりちゃんと呼ぶのはやめてほしい」とそれだけは頼んだんです。それでもね、部下の人たちは、「坂東さん」って言ってくれるんだけど、上の人からは相変わらず「まりちゃん」と呼ばれたまま。でもそのうち、「ばんまり」さんと呼ばれるようになってね(笑)。

―― いいですね、番長みたいで。御意見番の“バン”ですね。

坂東 そんな感じでしょうか(笑)。そう、“バン”です。

―― 最初、課長就任と言われたときはどうでしたか?

坂東 そこは民間企業と違って、心の用意はできていましたね。公務員は何年たったら管理職の端っこになるというようなパイプラインがある程度あってキャリアパスができていたので、それほどびっくりしませんでした。ただ最初は、2人目の子どもを産んだ直後だったので大変かなと思ってはいたのだけれど……、実際は管理職になってからの子育てのほうが1人目を産んだときの子育てよりも楽でした。もう、自信を持っていえます。

「時間に制約があるママには、管理職がおすすめよ」

―― そのとき、上のお子さんはおいくつだったのですか?

坂東 年が少し離れていて、11歳。上の子が生まれたのは、私が26歳で総理府に入省して4年目くらい、係長になる一歩手前のときだったかな。上司から頼まれる仕事の量は多いけれど、実は今考えるとそれほど重要度は高くなかったんです。でも、自分で自由に裁量することができないから、全部自分でやらなければならない。人にお願いできない当時に比べると、課長になってからは「この会議は明日でも大丈夫だから明日に回そう」とか、「会議は3時までにして5時には片付けるようにしよう」とか柔軟に仕事ができるようになってやりやすくなりましたね。

―― 管理職になることで、時間の使い方が自分でできるようになったのですね。ママでもリーダーに就くことを恐れる必要はないのですね。

坂東 時間だけでなく、仕事の配分も自分で裁量できる(笑)。自分の得意な仕事を大いに引き受ける。苦手な仕事は、その分野が得意な人に渡す。これは管理職になるっていいなぁ、と思いました。特に時間の制約のある働くママにとっては、「管理職になっておめでとう」ですよ。

―― 初めての課長時代には、今でいうベビーシッターさんを利用されましたか?

坂東 それがね、当時はまだシッターサービスがなかったの。1人目の子育ては、私が管理職ではなかったし本当に大変だった。夫は、民間企業で理科系の人だったから、夜は遅く朝は早くてほとんど家にいなかったんです。同じ高校の同級生で大学も同じ、私は文学部で彼はエンジニア。彼が修士を終わって入社後すぐに結婚したの。

―― 当時のことですから、重責もあってもちろん早くは帰って来られませんよね。

坂東 特に若い下っ端のときは、自由が利かなくて。人間って恐ろしいもので、その子育て分担がライフスタイルとして定着するのね。あまり違和感も感じず、こんなものだと。それを前提に色々な生活を組み立てたんですけれども、当時はまだ公立保育所が夜6時で終わるような時代だったから、近所の方に迎えに行ってもらって、私が帰る午後9時くらいまで預かっていただくという二重保育をしていたんです。

―― その当時の働くママは、皆さん自ら道を切り開いてきたのですね。

坂東 公立保育所に入れたのもとってもラッキーだったんですが、二重保育で預かってくださる方をみつけるのは結構大変でした。色々と保育所の方に紹介してもらったり、近所のワーキングママに相談先を紹介してもらったり、個人的なネットワークを一つずつたどって探すというような感じで、今みたいにベビーシッターの会社が色々あるという時代でもなかったんですよね。